ケアマネの八面六臂な日々
その人なりの最期
ケアマネジャーとして利用者の最期を語るには、まだまだ未熟だと恐縮しながら、これから何回かお伝えする機会があると思います。
「孤独死」「孤立死」という言葉は、どちらも不本意なニュアンスで聞こえてしまうのは否めません。ただ、状況的に孤独死であっても、その人らしいと思える最期もあります。
慢性閉塞性肺疾患で、在宅酸素を使用しながら一人暮らしのAさん。新型コロナに感染した時に病床がいっぱいで入院できず、「自宅で看取ることになるかな」と、担当のケアマネは休みを返上して対応しました。幸い薬が効いて、電動カートで外出するまで快復しました。
しかし、ある朝ケアに入ったヘルパーさんが、トイレの前で倒れているAさんを発見、往診医が死亡を確認しました。そのお顔は穏やかで、苦しんで亡くなったわけではないと想像できました。
すぐに、やんちゃ仲間だった同級生と近所の友人が自宅に駆け付けました。「俺をおいて逝くのか」と打ちひしがれる友人の傍らで、手際よく葬儀の手配をする同級生。決して一人ではない、仲間の存在がそこにはありました。
認知症ではないものの、生来の放浪癖があるBさん。ヘルパーが自宅を訪れても、不在ということが度々ありました。その日もヘルパーさんから不在の連絡が入りケアマネが自宅へ。生活習慣を熟知するケアマネは、「小窓が開いているので、自宅にいるはず」と判断しました。
こうした場合、119番に通報すると、消防署から「事故ですか、事件ですか?」と聞かれます。その際には「安否確認です」と伝えると、その後の対応がスムーズに進むことをこの一件から学びました。
通報して数分後、交番の警察官、レスキュー隊、救急車が続々と登場。小窓にはしごをかけ、小柄なレスキュー隊員が自宅の中に入った途端、「発見!」と亡くなっているBさんを見つけました。
「人は生きてきたように最期を迎える」と聞いたことがあります。Aさんは仲間がいてよかった、Bさんは放浪の終着点が住み慣れた自宅でよかった。私にはお二人なりの最期だったのではないかと思えます。
石田美恵
東京民医連のケアサポート千住(足立区)所長
全日本民医連「ケアマネジメント委員会」委員長
いつでも元気 2024.9 No.394
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