神々のルーツ “古代の闇”に光を(終わり)
文・写真 片岡伸行(記者)
本連載では、「祈りの場」から見た古代日本の姿を浮き彫りにしてきました。しかし、朝鮮半島との深い関わりについては広く認知されていません。“古代の闇”に光が当てられるとき、東アジアの新たな歴史が照らし出されるでしょう。
「上七社」※1 や天皇家の守り神(園神・韓神)をはじめ、列島の「祈りの場」と朝鮮半島との関わりが、なぜ多くの人に知られていないのでしょう。
近代天皇制と国家神道の罪過
そもそも「神道」という言葉自体、中国から伝わったもので、当初は「じんどう」と濁音で読み「仏教下の神々」を指す仏教語だったようです。「しんとう」と清音で呼ばれるようになったのは14世紀の室町時代以降といいます。※2
明治時代から昭和にかけて、皇室祭祀と神社神道を結びつけて政治的に偽装されたのが国家神道と近代天皇制でした。天皇を崇めさせ、自立した個人でなく「臣民」とし、自国の優越をことさら強調することで他国蔑視を根付かせ、大陸や半島との交流と友好の歴史に蓋をしてしまいました。
敗戦後も皇室神道は残り、温存された差別構造が今のヘイト(差別・憎悪)につながっています。このように列島の本当の姿が霧に包まれているのは、歴代日本政府の歴史に対する態度に問題があるからです。
21世紀に初の天皇陵調査
2011年2月24日、大阪府羽曳野市で応神天皇陵とされる前方後円墳の史上初の学術調査が実施されました。21世紀になって初めてというのは驚きですが、考古学会や歴史学会による度重なる調査の要請を、宮内庁はことごとく拒否し続けてきたのです。しかも「初の学術調査」と銘打ちながら、墓内部への立ち入りは許さず、採取や発掘もできず、徒歩で内堀をめぐって観察するだけという調査でした。
古代からの天皇の墓がどこにあるか、近世になると全く判らなくなっていました。江戸時代末から明治にかけて、『日本書紀』などの記述を元に天皇主権の国体を構築する政治的意図を持って場所を決めていったのです。ですから、そこが本当に応神の墓なのかどうか学術的には全く不明です。
宮内庁が管理する天皇・皇族の陵墓の数は743、参考地など含めると899もあります。しかし、初代とされる神武から第42代文武までの陵墓で「これは真に◯◯天皇の墓だ」と言えるのは10基しかないと、考古学の泰斗は指摘します。※3
箸墓古墳は卑弥呼の墓?
第7代大王とされる孝霊の娘・百襲姫の墓だと宮内庁が指定する奈良県桜井市の箸墓古墳。全長約280m、高さ約30mの巨大な前方後円墳ですが、築造年代が3世紀中頃と推定されると、ちょうどその頃(248年)に没した邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかと騒然となりました。しかし、学術的な発掘が許されないため真偽は不明です。
3~4世紀の古墳は邪馬台国やヤマト王権の成り立ちの謎を解く可能性を秘めていますが、日本政府はまともな調査をさせません。明らかになると、なにか困ることでもあるのでしょうか。
真の歴史へのアプローチを
本連載のテーマから逸れますが、「万世一系」は記紀神話による捏造で、倭国の王権は半島勢力から幾度も簒奪されたと具体的に論証する研究者も複数います。※4 昨年2月号〈神話と洗脳の時代〉で触れたように、私たちはまだ神話を事実である「かのように」思わされ、そこで思考停止したまま“古代の闇”の中にいるようです。
自分の国の歴史や本当の姿を知ることができない民主主義国家などありえません。それを明らかにするのは主権者である私たちの権利であり、この列島に暮らし、血と汗と涙を流して現在の郷土を築いた先人への義務でもあるでしょう。最後にそのことを強調し、連載を閉じます。(おわり)
※1 上七社とは「伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂(上賀茂、下鴨)神社、松尾大社、平野神社、伏見稲荷大社、春日大社」の七社
※2 井上寛司『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書、2011年)
※3 大塚初重『古代天皇陵の謎を追う』(新日本出版社、2015年)a
※4 畑井弘『古代倭王朝論 記紀伝承の虚実』(三一書房、1997年)
本稿は筆者が講師を務めた獨協大学の総合講座を下敷きにしました。参考文献の紹介は一部に限りましたが、先達の研究成果に敬意を表します。なお、本連載に加筆した書籍が来年2月、新日本出版社(電03ー3423ー8402)より刊行予定です。
いつでも元気 2023.12 No.385
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