民医連70年 被爆地で平和の担い手に
被爆地の広島と長崎で、平和の担い手を育てる取り組みを紹介します。
私もピースナビゲーター
広島民医連
文・武田 力(編集部) 写真・若橋 一三
「原爆の子の像は全国からの募金によって、65年前の子どもの日に建立されました」。
「像のモデルになった佐々木禎子さんが病床で折った鶴は、1300羽以上とも言われています」。
広島平和記念公園にある「原爆の子の像」の前で説明するのは、広島中央保健生協の中村貴美さんと宮塚玲奈さん。2人とも組合員活動推進課の職員で、広島民医連「平和ゼミナール」第10期の卒業生です。
平和ゼミナールは、被爆証言を聴いたり戦跡を訪れるなどして学ぶ約9カ月間のプログラム。広島市内にある原爆碑や被爆遺構を案内する「ピースナビゲーター」養成も目的のひとつです。
この取り組みは2012年にスタートして、昨年の第11期までに93人が卒業しました。看護師や理学療法士、社会福祉士や事務など、さまざまな職種の職員が参加しています。
きっかけは沖縄
「最初のきっかけは、2003年に沖縄で開催された民医連全国青年ジャンボリーです」と話すのは、平和ゼミナールの運営委員長を務める平井充晴さん(広島県医療事業協同組合専務理事)。開催地・沖縄民医連の若手職員が、平和ツアーとして沖縄戦の戦跡や米軍基地周辺を案内してくれました。
「若い職員が平和について自分の言葉で語っていた。沖縄の歴史を目の当たりにしたのとあわせて、二重の意味で衝撃だった」と平井さん。以来、「被爆地・広島の民医連職員にも必要な活動ではないか」との思いをあたためていました。
神奈川民医連の「平和学校」の取り組みにも触発されながら、構想を具体化したのは11年。平井さんは仲間と運営委員会を立ち上げて、カリキュラムを検討しました。平和を自分の言葉で語るためにも、総合的で系統的な学びが欠かせません。〝卒業制作〟として、各グループで選んだ原爆碑や被爆遺構について調査・発表する機会を設けるなど、工夫を重ねてきました。
加害の歴史も学ぶ
第10期卒業生の中村さんは「原爆碑のそれぞれに思いがこめられていて、広島出身の私も知らないことをたくさん学べた。(ピースナビゲーターは)どういう言葉を選べば伝わりやすいのか、考えることがとても勉強になった」と話します。
フィールドワークでは被爆遺構として保存されている旧広島陸軍被服支廠や、毒ガス資料館がある大久野島(竹原市)へも行きました。今は多くの観光客で賑わう「うさぎの島」も、戦時中は化学兵器の製造拠点として地図から抹消されていました。
「国際法で禁止された非人道的な兵器を製造していたことに、まず驚いた。それがどのように使用されたのか気になる」と宮塚さん。「製造時に危険性を十分に知らされず、いまだに後遺症で苦しむ従業員の方もいる」と、被害と加害の複雑さを見つめます。
交流を深めて
「ここ数年はコロナ禍で、受講生を募るのにも苦労しました」と話すのは、平和ゼミナールの事務局長を務める権藤正広さん(広島民医連事務局)。「感染状況を見ながら、今年は沖縄での現地学習を復活させる予定です。みんなで交流を深めて、楽しく学びあえたら」と笑顔を見せます。
6月の国会では、日本の防衛費増額に向けた財源確保法が成立。5年間で43兆円を防衛費に注ぎこむ計画が進められています。
3人の子どもを育てる中村さんは「子育てや教育にこそ手厚い国になってほしい」と語ります。「医療や介護、社会保障の充実も必要です。どこに優先してお金を使うのか。平和を守ることと患者さんや利用者さんの健康を守ることは、まっすぐつながっています」と中村さん。
宮塚さんは「唯一の被爆国だからこそ発信できることが本来はあるはず。悲惨な体験を語れる方が年々減っていく中で、学びを継続しながらしっかり伝えていきたい」と前を向きます。
自分の声で碑巡りガイド
長崎民医連
文・楠本 優(編集部)写真・五味 明憲
「被爆地長崎の職員もガイドができるように」─。長崎民医連では広島民医連の取り組みに学び、2021年に開講した平和学校の講座で、「碑巡りガイド養成」を位置づけています。第一期は8人、第二期(22年)は5人で、これまでに13人が卒業しました。
講座は全6回。一連の平和の課題を学んでいくなかで、最終的にガイドができるようになることを目標としています。
第1講座では「なぜ民医連は平和の活動に参加するのか」と学ぶ意義から始めます。第2講座で爆心地公園や浦上天主堂※1、山里小学校※2などに行き、ガイドを受けて予行練習をします。昨年は第3講座で“被爆体験者”の話を聞き、第4講座では沖縄の基地問題を学びました。
第5講座で受講生それぞれがガイドを実践。実際にガイドをしてみると、「話すことに集中しすぎてしまう」と皆さん。原稿を読みながらだと聞いている人たちの反応が分かりません。また、自分自身が体験したことではないので、臨場感を出すのが難しいのです。
「聞き手の表情や反応をみながら、何も見ずにガイドをするのを目標にしています」と話すのは上戸町病院の小森恭平さん(理学療法士)。「毎回難しいと思うし、ここを伝え忘れたなとか、ここをもっと詳しく伝えたかったな、という反省は毎回ある」と難しさを振り返ります。
小森さんはガイドの要請があったら必ず引き受けると決めています。「なぜ自分は医療人として平和活動をしているのか」との思いを、ガイドの最後に伝えるようにしています。「1人でも多く興味をもつ人が出て、自分で調べたりするようになってほしい。ガイドがそのきっかけになれば」と小森さん。
学びを糧に
受講対象者は志願制で、職場からの推薦もあります。職種は事務やリハビリ、介護職とさまざまです。
香焼民主診療所の田畑耕一さん(作業療法士)は、「リハビリの仕事で被爆者の方と接する機会があり、体験談をよく聞く。被爆遺構のことは知ってはいたが、おぼろげな記憶しかなかった。改めて勉強する機会になれば」と参加したきっかけを振り返ります。
田畑さんは第5講座で、山里小学校のガイドをしました。ガイドの難しさを感じたのはもちろんですが、被爆後の生活を調べるきっかけにもなりました。「平和学校を受講しなければ、一生知ることがなかったかもしれない」。
「長崎市で生まれ育ち幼い頃から平和について学んできたが、知らないことのほうが多かった」と話すのは大町美沙さん。グループホーム風の丘で介護福祉士として働いています。利用者に語り部をしていた方がいて、話題を広げたいとも思って参加しました。
「“被爆体験者”の存在を知ることができたのが一番良かった」と大町さん。被爆体験者は、原爆の熱線や黒い雨を浴びたにもかかわらず、国が定める地域の外にいたため被爆者と認定されていません。「放射線による直接的な身体への健康被害はない」とされ、その苦しみと不当性を訴えてたたかっています。
戸町ふくし村の加藤なぎささん(介護福祉士)は、「戦争で日本は被害だけでなく加害行為もたくさんあった。加害の側面についてはあまり意識していませんでした」と話します。外国人を強制連行して働かせていたという事実を知り、衝撃を受けました。「学んだことをどれだけ職場に持ち帰るか、次の世代にどうつなげていくかが課題」と指摘します。
長崎民医連の松延栄治事務局次長は「平和学校の主な目標が碑巡りガイド養成なので、そちらに特化した内容も検討しました」と話します。しかし受講生から「沖縄の基地問題や被爆者の話を聞き、総合して学ぶほうが学びが多くて糧になる」との声があがり、すごく嬉しかったと振り返ります。
長崎民医連では7月から第三期平和学校が始まり、次世代を担う職員が新たに誕生します。
※1:爆心地から北東約500mにあるカトリック大聖堂。原爆により全壊したが1959年に再建。
敷地内に多くの被爆遺構が残る
※2:爆心地から北約700mの旧山里国民学校
いつでも元気 2023.8 No.381