けんこう教室 高次脳機能障害(下)
『高次脳機能障害~医療現場から社会をみる』(岩波書店)の著者・山口研一郎さんによる連載。
今回は、近代社会がもたらした「文明病」としての側面を解説します。
前回は高次脳機能障害の症状や、当事者が抱える困りごとについて述べました。実はこの障害が社会的に認知されるようになったのは近年のことです。交通事故を例にとれば、自賠責保険の後遺障害に高次脳機能障害が加えられたのは2001年のことでした。
しかし歴史を振り返れば、高次脳機能障害に苦しむ人はずっと以前から存在していました。石炭産業の労働現場で、一酸化炭素(CO)中毒から高次脳機能障害を負った被害者などを見れば、近代社会がもたらした「文明病」という側面が見えてきます。
戦後最悪の労災事故
明治以来、九州や北海道での鉱山爆発によって、多くの労働者が死亡したり一酸化炭素中毒に見舞われました。なかでも1963年11月に三井三池炭鉱(福岡県)で起きた爆発事故は、戦後最悪の労災事故と言われます(資料1)。入坑していた1403人中458人が死亡、839人が一酸化炭素中毒に陥りました。
中毒により高次脳機能障害を発症した人々の生活は悲惨でした。労働組合は窮状を会社や国に訴え、家族は三川鉱の坑底に座り込むなど、決死の抵抗運動に立ち上がりました。
高次脳機能障害の病態が明らかでなかった当時、職場復帰できない後遺症患者に対して「働けないふりをして給料をもらっている」「組合運動のために病気を装っている」などの誹謗・中傷が浴びせられました。3年後には労災法の適用が打ち切られ、坑内労働への復帰が強制されました(復帰困難者は退職扱い)。
労働者や家族が提訴した「三池CO訴訟」で、会社の責任を認める判決が出されたのは93年、災害から実に30年後のことでした。
資料1
三井三池炭鉱爆発事故
1963年11月9日、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で発生した炭塵爆発事故。爆発は三川鉱第一斜坑の坑口から約1600m付近で起こり、働いていた1403人のうち死者458人、一酸化炭素(CO)中毒者839人を出す大惨事になった。炭鉱内に浮游する石炭の粉末に着火して起こる炭塵爆発は、坑内の炭塵を常時除去したり、散水や散灰によって炭塵が浮上するのを防止すれば回避できたとされる
社会がつくり出した病
三井三池炭鉱事故の原因は、三井鉱山(当時)の合理化政策によって人員が削減され、坑内清掃が行き届かずに生じた炭塵爆発※でした。戦後、莫大な利益を上げた自動車産業の影で、「交通戦争」と呼ばれた交通事故の多発が高次脳機能障害の被害者を生み出した側面も見逃せません。経済性を優先し、環境やいのちへの配慮が蔑ろにされて起きた水俣病など、いずれも社会のありようがもたらした「負の遺産」なのです。
社会がつくり出した病は、社会的に解決しなければなりません。しかし、当事者や家族は社会的な支援が少ないまま、長期間にわたって孤立を余儀なくされてきました。
多くの場合、当事者の生活は家族なしでは成り立ちません。しかし、家族はいずれ高齢化していきます。「親亡き後」に迎えてくれるグループホームなどは圧倒的に足りません。
※ 炭塵爆発…炭鉱内に浮游する石炭の粉末に着火して起こる爆発
「支援法」の制定を
関西地方で「頭部外傷や病気による後遺症を持つ若者と家族の会」が結成されたのは1995年のこと。約30年経った現在では、当事者団体の輪は全国に広がりました。当事者と家族が情報交換や交流をしながら、行政に対して「高次脳機能障害支援法」の制定を求めています。
「支援法」制定の意義や目的として、次の4点が挙げられます。
第1は社会的な認知や理解を促進し、当事者や家族の困りごとを軽減することです。高次脳機能障害が障害として認定されなかったり、職場や社会に受け入れられないことが、当事者や家族の最大の苦しみであることを前回お伝えしました。
第2は現代社会のありように対する問題提起です。政府の新自由主義的な政策のもと、職場や社会で競争が強いられ、人々の絆は希薄になっています。“生産性”や“効率”についていけない人は、片隅に追いやられてはじき出されてしまいます。その一つの象徴として高次脳機能障害の方々の就労の困難があり、これは「社会を映し出す鏡」なのです。「支援法」はあるべき職場や社会について考える一助になります。
第3は「2025年に約700万人の患者数」とされる認知症への対応の試験的な取り組みになることです。認知症と高次脳機能障害はイコールではありませんが、患者さんへの接し方や環境調整など、対応や配慮すべき点に共通項が多くあります(資料2)。
第4に「高次脳機能障害研究・治療・リハビリセンター」の設立に道を開くことです。脳は「広大な宇宙」と称される未知の領域です。高次脳機能障害についても解明されていない分野が多く、治療やリハビリも確立していません。交通事故によって「遷延性意識障害」を生じた人たちに対しては、全国4カ所(千葉、宮城、岡山、岐阜)に自賠責保険運用益を利用した「療護センター」が設置されています。同様な施設の設立が望まれます。
すべての人が生きやすい社会づくりに向けて、この連載を機に多くの方に関心を持っていただけると嬉しいです。
印象に残った言葉
2016年に『【増補改訂版】国策と犠牲―原爆・原発 そして現代医療のゆくえ』(社会評論社)という本を編集して出版しました。きっかけになったのは、東日本大震災に伴う福島第一原発事故。きちんとした反省と総括がないままに原発再稼働・再活用に突き進む日本社会の動きは、本連載で述べた「負の遺産」がいまだに清算されていないことを示しています。
20年ほど前、高齢者デイケア施設で週1回、高次脳機能障害の患者さんのリハビリや「家族のつどい」を行っていました。多くの職員がボランティアで参加してくれました。ある職員に「なぜ皆さん、休日にもかかわらず来てくれるんでしょう?」と尋ねると、次のような答えが返ってきました。
「私たちは高齢者福祉の現場で、毎日さまざまな人間関係に巻き込まれて生きています。気持ちが折れることも結構あるんですよ。それを唯一ほぐしてくれるのが、当事者の方々とのふれあいなんです。(当事者の方々は)世間を渡り歩くために誰もが知らず知らずのうちに身につけてしまった“駆け引き”や“ごまかし”をきれいに洗い流した人たちのように思えます。それで私たちもとても救われているのです」。
私たちが本当に大切にしなければいけない価値とは何なのか。印象に残った言葉として記憶しています。
〈筆者の書籍紹介〉
『見えない脳損傷MTBI』
著者:山口 研一郎
出版社:岩波書店
定価:682円(税込)
いつでも元気 2023.8 No.381