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いつでも元気

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民医連70年 辺野古支援連帯行動

文・新井健治(編集部) 写真・今泉真也

 全日本民医連の第49次辺野古支援連帯行動が5月11~13日に沖縄県で行われ、北海道から徳島まで17県連から25人が参加しました。

大浦湾から望む辺野古新基地の建設現場。臨時制限区域を示すオレンジフロートの手前にあるのは辺野古支援連帯行動の参加者が乗った船。フロートの向こう側には監視のために並走する海上保安庁のゴムボート

大浦湾から望む辺野古新基地の建設現場。臨時制限区域を示すオレンジフロートの手前にあるのは辺野古支援連帯行動の参加者が乗った船。フロートの向こう側には監視のために並走する海上保安庁のゴムボート

 5月12日午前8時、米軍の新基地建設が進む名護市辺野古のキャンプ・シュワブゲート前。腕を後ろに組んで胸を張り、微動だにしない約30人の警備員がずらりと並ぶ。
 沖縄県民の民意を無視して強行される基地建設。「少しでも工事を遅らせたい」と、2014年からゲート前に座り込みを始めて3232日目、住民とともに民医連職員も座り込んだ。日常では体験できないピリピリした雰囲気。しばらく経つと、ゲートの中から警官、続いて黒いサングラスをかけた機動隊員が出てくる。
 9時近く、辺野古の海を埋める土砂を運ぶダンプカーがゲート前に到着。「道路交通法禁止行為に該当します。直ちに状況を改善してください」とマイクで呼びかける機動隊員。職員の安全を気遣い住民は座り込みを切り上げた。
 「同じ日本人が威嚇しあう異様な光景。普段の生活では想像できない威圧感に悲しくなった」と話すのは総合病院岡山協立病院ソーシャルワーカーの宰田和樹さん(34歳)。この1年、平和ゼミで学んできたが、現場で体感することはやはり違う。「改めて沖縄の人々の人権が無視されていることを実感した」と言う。

海から見た建設現場

 沖縄は戦後、米軍に占領され、1972年5月に返還された。占領の最中から住民の土地を奪って強引に基地建設が進められ、全国の米軍専用施設のうち7割が沖縄県に集中する。
 沖縄民医連が産声を上げたのは返還前の1970年、「沖縄民主診療所」(現・那覇民主診療所)が那覇市に開設された。沖縄医療生協は72年に設立、一貫して基地のない平和な島を願って運動してきた。
 綱領に「人類の生命と健康を破壊する一切の戦争政策に反対」と掲げた全日本民医連は、2004年に辺野古支援連帯行動をスタート。コロナ禍で中断し、今回3年ぶりに再開された。
 座り込みに続き、港から船で建設現場に行くことに。途中、休憩所の瀬嵩の浜に立ち寄る。駐車場からアダンの森を抜けると急に視界が開け、目の前に美しい浜が。
 波が寄せる砂浜に座った耳原総合病院(大阪)管理師長の西端佳世さんは「きれいな海が壊されていく。自分たちにできることは何なのか」と問いかける。
 コロナ禍の3年、同院は“断らない救急”を掲げ奮闘してきた。世間はコロナ前に戻ったように見えるが、現場は気が抜けない。「大阪に帰ったら、師長会や職場会議で座り込んでいた人たちの言葉を伝えたい。現場の職員が沖縄に関心を持てるよう、まずは現実を知ってもらいたい」と言う。
 参加者は大浦湾の汀間漁港から10人乗りの船で、3便に分かれ建設現場へ向かう。船は上下に揺れ波しぶきがかかる。第1便は偶然、海上でカヌーに乗って抗議する人と遭遇。カヌーが臨時制限区域を示すオレンジ色のフロートを越えて抗議の意志を示すと、海上保安庁のゴムボートが全速力で追ってくる。必死で逃げるカヌー。
 その様子をスマホで撮影した村口詞紀さん(32歳)は、勤医協札幌ひがし訪問看護ステーション(北海道)の作業療法士。「なんとかして基地建設を止めたいという必死さに鳥肌が立った。札幌に帰ったら、この動画をみんなに見せたい」。

進む軍事大国化

 ここで起きていることは、沖縄だけの問題だろうか。村口さんは「リハビリ目的で利用者さんの自宅を訪問した際、オスプレイの爆音のことを聞いた」と言う。沖縄から遠く離れた北海道でも昨年10月、米軍輸送機オスプレイ を使った日米共同訓練が行われた。
 政府は昨年12月に安保3文書を改定、敵基地攻撃能力の保有と5年間で43兆円の軍事費を掲げた。この方針に合わせて沖縄など南西諸島にミサイルを配備し、全国で米軍と自衛隊の共同訓練が活発化している。
 12日に講演した沖縄民医連事務局長の名嘉共道さんは「戦争する国づくりが沖縄にいるとよく見える。那覇市でミサイル攻撃を想定した避難訓練が行われ、保育園児が防空頭巾を被って避難した。まるで戦前だが、本土では報道されない」と指摘した。
 第49次辺野古支援連帯行動団長の山田秀樹医師は立川相互病院(東京都立川市)の副院長。今年2月、病院から数百mの陸上自衛隊立川駐屯地に、オスプレイが訓練のため初めて飛来した。立川市を含む東京都の多摩地域では、発がん性が疑われる有機フッ素化合物(PFAS)の調査が始まり同院も協力。汚染源として米軍横田基地が推測されている。
 「地元を見つめれば、今までは気づかなかった問題があるかもしれない。身近な場所から戦争の“足音”を感じてほしい」と山田医師。

オスプレイ 米軍の主力輸送機。操縦が難しいことから何度も墜落事故を起こしている。首都圏では横田基地(東京)と陸上自衛隊木更津駐屯地(千葉)に配備された

「既に戦前か」

 1945年3月の米軍上陸から始まった沖縄戦は県民の4人に1人、約12万人が亡くなった。特に南部は激戦地になり、日本軍と住民は「ガマ」と呼ばれる自然洞窟に逃げ込んだ。
 そのひとつ、糸数アブチラガマに入った。ヘルメットを被り、軍手をして懐中電灯を持ち、狭くて急な入口から身をかがめてガマの中へ。足下はゴツゴツして歩きにくい。ヘルメットが時折、低い天井にガツンとぶつかる。
 ガマでは負傷した兵士の治療も行われた。内部は手術室や病棟、兵器庫など部屋状の空間に分かれている。最後の空間で懐中電灯をいっせいに切ると、漆黒の闇が広がる。イヤホンガイドの青い光だけが、まるで魂のように輝く。
 最後に訪れたのは魂魄の塔。沖縄戦最後の激戦地で、累々と横たわった約3万5000の遺骨を集めて埋葬した場所だ。参加者は黙祷を捧げたあと、そこから徒歩で数百mの海岸へ。いまやここはサーフィンのメッカ。遠く波間にはサーファーが気持ちよさそうに波に乗る。78年前、この海岸を米軍艦が埋め尽くし、海から陸へ無数の砲弾を撃ち込んだ。
 3日間、ガイドを務めた瀬長和男さん(沖縄民医連事務局)は言う。「沖縄では次の戦争が間近に迫っている。どうすれば止められるのか。一人ひとりが考えて行動を起こす時が来ている」。

自分の言葉で伝えたい

 初日(5月11日)は嘉数高台公園から普天間基地を見学した。瀬長さんの説明がヘリコプターの爆音で度々中断される。違法な低空飛行が何度も繰り返される。「これが沖縄の現実。基地が返還されなければ戦争は終わらない。終わっていないのに、次の戦争の準備が進んでいる」と瀬長さん。
 辺野古新基地の周囲には航空法に定められた高さ制限を超える建物がいくつもあるが、政府はそのまま工事を進めている。「皆さんは国は法律を守ると思っているかもしれないが、権力は勝手に法を無視します」。瀬長さんの言葉が重く響く。
 「安保3文書は知っていたが、危機感がなかった。沖縄ですごいことが起きているのを肌で感じ、もう他人事でいられない」と話すのは、薬局のふれあい千石町店(富山)事務の神谷千恵さん(26歳)。昨年7月に入職したばかりだ。「民医連に入って、声を挙げることの大切さが少しずつ分かってきた」と言う。
 参加者のうち最年少の一二三愛加さん(23歳)は、城北病院(石川)のソーシャルワーカー。「ソーシャルワーカーは人を支援する仕事。私自身が社会に目を向けなければ、この仕事はできない。病院に戻ったら、沖縄で実感したことを自分の言葉で発信していきたい」と話した。

いつでも元気 2023.7 No.380