神々のルーツ 渡来系の総力挙げた造仏
文・写真 片岡伸行(記者)
奈良時代に華開く煌びやかな天平文化。しかし、その幕開けは凶変が重なる不穏なものでした。暗雲を一掃しようと、聖武天皇が命じた大仏建立。前号に続き、日本が誇る世界最大級の金銅像、その完成までの苦難の道のりを辿ります。
大仏建立の前夜、729年に始まる天平時代は皇位継承にからむ謀反事件や大地震、藤原広嗣の乱などが起き、世情はひどく混乱、荒廃しました(表)。
聖武は仏教に救いを求め、全国62カ国に「国分寺」を建てるよう命じ、東大寺を「総国分寺」に位置づけます。しかし、地震後の疫病や飢饉などで疲弊する地方での建立は進まず。その2年後(743年)、聖武は大仏建立の大号令をかけるのです。
総指揮者・国中公麻呂
もとより巨大な像の造立には、熟練の技術者とそれを支える多くの民の力が必要です。聖武が一時は弾圧した百済系の僧・行基や良弁に協力を要請し、次々と要職に就けたのはそのためです。
大仏制作の総指揮をとったのは、同じく百済系の仏師・国中公麻呂でした。公麻呂の祖父・国骨富は百済の高官で、百済滅亡(660年)後に渡来し、大和国葛下郡国中村(現・奈良県葛城市)に居住しました。
聖武は746年に公麻呂を「造仏長官」に任命。翌年9月、大仏の鋳造作業が始まります。鋳造師には高市真国(大国)、高市真麿、柿本男玉が就任、大工棟梁に猪名部百世が就き、トップの公麻呂を支えます。彼らはいずれも大和国高市郡に住み着いた百済系の渡来氏族でした。
百済王敬福が黄金発見
鋳造は3カ年、8回にわたり重ねられますが、技術的な困難さに加えて物資不足、特に像の表面に塗る金が足りず壁に当たります。そこに朗報が入りました。
陸奥国(現在の東北東部)の国司・百済王敬福から、小田郡(現在の宮城県遠田郡)で「金発見」の一報が。敬福は百済滅亡後に倭国に移住した百済王族の子孫です。749年4月、黄金900両が駅馬(速い馬)で都に運び込まれ、聖武は狂喜します。
しかし、またしても難題が。融解した銅が鋳型の隅々まで滑らかに流れていかない技術的な欠陥が露呈。その解決への道筋をつけたのは宇佐八幡宮(宇佐神宮)でした。昨年6月号で紹介した新羅から香春の地(福岡県香春町)に渡来した銅精製技術集団が、不備を解消したのでしょう。
一体どれだけの人が造立に関わったのか。『東大寺要録』によれば、鋳造技術者が37万人余、その配下の労働者51万人余、材木関係技術者5万人余、配下の労働者166万人余、合計260万3638人。莫大な人とカネとモノを注ぎ込み、750年1月27日、大仏鋳造が完成しました。
大仏殿東隣に建つ辛国神社
752年4月9日の「大仏開眼供養」の導師を務めたのは、インドの僧・菩提僊那でした。正装の僧1万人が見守る中、僊那の筆で開眼した大仏の前で華やかな祝典を挙行。皇室伝統の舞のあと中国の唐散楽、ベトナムの林邑楽、朝鮮の高麗楽と異国の音楽舞踊が続きました。この3カ国は東アジア圏有数の金の産出国とされます。
東大寺の初代別当に就いた良弁は胸の内で、この慶賀の光景を兄弟子・行基に報告したことでしょう。行基は大仏完成を見ることなく3年前に他界。体調悪化を押して式典に臨んだ聖武も4年後に56歳で没します。
すでにお分かりでしょう。奈良の大仏は、朝鮮(韓国)渡来系の僧や技術者らの総力を挙げた一大モニュメントであり、東アジア圏の協力の産物でした。建立に貢献した多くの名もなき渡来系労働者を讃えるかのように、大仏殿東隣の丘陵地には辛国神社が建てられています。 (つづく)
※ 参考文献=宇治谷孟・全現代語訳『続日本紀(上・中)』(講談社学術文庫)、金達寿著『日本古代史と朝鮮』(同)、杉山二郎著『大仏建立』(学生社)
いつでも元気 2023.7 No.380
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