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いつでも元気

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神々のルーツ 「神宮」と韓神山の謎

文・写真 片岡伸行(記者)

伊勢神宮(三重県伊勢市)の内宮へ向かう宇治橋を渡る人々

伊勢神宮(三重県伊勢市)の内宮へ向かう宇治橋を渡る人々

 天皇家の重視した「上七社」の筆頭で、皇室の祖とされる女王・天照を祀るのが有名な伊勢神宮。ただ、その近くに「韓国の神の山」と書く韓神山があることは知られていません。地図から消された韓神山と神宮の謎に迫ります。

 伊勢神宮(三重県伊勢市)ほど、明治以前と以後で変貌した神社はないでしょう。
 元々は民間人による地域密着の、しかも神仏共存の神社でした。しかし、昨年2月号で紹介した神仏分離令(1868年)により国家の管理下に入ることで、多くの寺院や僧侶は排除され、天皇崇敬・国家神道の中心的施設に生まれ変わります。1889年に歴史上初めて皇居内に「宮中三殿」が設けられると、伊勢神宮はそれと対をなす「聖地」とされたのです。 ※1

新羅発祥の「神宮」

 伊勢神宮の正式名は地名を除いた「神宮」で、日本の神社の中心的存在とされます。ただ、アジア圏で歴史上初めて神宮の名称を使ったのは朝鮮半島南東部にあった国・新羅でした。半島に現存する最古の歴史書『三国史記』(新羅本紀・第22代智証王)にこう記されます。 ※2
〈始祖の降誕の地、奈乙に神宮を創立〉。
 同じ名称になったのは偶然でしょうか。智証王の在位は6世紀初め。一方、伊勢神宮の祭祀制度を整備したのは、7世紀後半(673年)に即位した第40代天武天皇です。実は天武の時代には、百済に代わって新羅との関係が深くなっていました。

江戸時代の絵図と荒木田氏

 伊勢神宮には内宮と外宮があり、内宮(皇大神宮)の近く、伊勢市楠部町にあるのが韓神山です。現在の地図からは消えていますが、江戸時代の史料にその名があります。土地境界争いの際、当時の奉行・岡部駿河の裁定で1689年(元禄2年)に作成された彩色絵図。 ※3 そこに〈加らかみ山森〉とあり、古文書には〈韓神山〉と記されます。絵図には唐木挟という地名もあり、唐木は「韓から来た」と解すこともできます。
 竹林の茂る韓神山の頂上部には韓神社の小さな祠が建ち、ここを守っていたのは内宮の神職(禰宜)を代々務めた荒木田氏でした。 ※4 少し離れた暗い森の中には巨岩を仰ぐ一族の祭祀の場も荒れ果てて残ります。
 荒木田氏の素性はよく判っていません。ただ、古代に朝鮮半島から来た人を「今来る」と書き「今来」と称しました。半島南部に伽耶(加羅)と呼ばれる小さな国の連合体 ※5 があり、その一つに安羅(阿羅、安耶)がありました。新羅から来た人(新羅来)に「白木」「白城」などの字を当てたように、荒木姓は安羅から来た「安羅来」との説があります。

「加羅」と呼ばれた伊賀国

 伊勢神宮北西の山側にあるのが忍者で有名な伊賀市。『伊賀国風土記』逸文によれば伊賀国はかつて伊勢国に属し、領地を分割されましたが10数年も名前が定まらず、その間ここを「加羅具似」と称しました。「加羅」は前述のように伽耶諸国の呼び名で、「具似」は「国」でしょう。
 この地域には朝鮮半島からの移住者が暮らした痕跡が多数残ります。津市の六大A遺跡では弥生時代後期から古墳時代の古代土師器などが多数出土し、伊勢市の隣、明和町の北野遺跡からも土師器、須恵器などが出土。須恵器は伽耶諸国の流れを汲む硬質の土器です。
 この地に建てられた新羅発祥の名称「神宮」、そこに天皇家の祖神が祀られ、近くの韓神山を守っていたのが安羅から来たとの説がある荒木田氏、隣の伊賀が「加羅国」と呼ばれたこと、そして韓神山の名前が消されたこと。これらは偶然ではなく、歴史的な背景と経緯があってのことだと思われます。(つづく)

※1 島薗進著『国家神道と日本人』(岩波新書)に詳しい。「宮中三殿」とは賢所、皇霊殿、神殿の3施設の呼び名
※2 末松保和著『新羅史の諸問題』(東洋文庫)に詳しい
※3 伊勢市中村町共有財産自治会が保管
※4 禰宜とは祭祀を司る職。明治政府は伊勢神宮を国家管理下に置くと、祭主(藤波氏)を罷免し荒木田一族らの世襲も廃止。神官は政府の任命制となった 
※5 伽耶(加羅)諸国は6世紀中頃に新羅に滅ぼされ併合された

いつでも元気 2023.5 No.378