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いつでも元気

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神々のルーツ 山辺の道と古代の兵器庫

文・写真 片岡伸行(記者)

石上神宮近く、池や歌碑がある「山辺の道」

石上神宮近く、池や歌碑がある「山辺の道」

 「政の要は軍事なり」。7世紀後半に即位した天武天皇の信条を表す言葉です。「古代の国家神道」を整備したとされる天武(昨年4月号で紹介)は、即位後「国家守護」を目的に「2つの神宮」を創設しました。その一つが石上神宮(奈良県天理市)です。

 奈良県奈良市の春日山から桜井市の三輪山まで、奈良盆地東の山裾を縫うように走る全長約26kmの「山辺の道」は、現存する日本最古の古道です。古代の面影を色濃く残すのが天理市から桜井市の16km区間。布留山の西北に、鬱蒼とした樹木に囲まれた石上神宮(天理市布留町)が建ちます。

「神宮」の名のついた古社

 神社の名称はいくつかに大別されます。最も格式が高いとされる天皇ゆかりの「神宮」、次いで伏見稲荷大社や諏訪大社など全国各地で幅広い信仰を集める「大社」、同じく全国に広がる天満宮や金刀比羅宮など「宮」、最も一般的で各地にある小中規模の「神社」、他の神社から祭神を遷し祀った「社」などがあります。
 720年に完成した最古の歴史書『日本書紀』の中で、「神宮」と呼ばれるのは伊勢神宮と出雲大神宮(出雲大社)、そしてこの石上神宮の3社だけ。※1 なかでも石上神宮はある意味で別格でした。どんな性格をもった神社なのでしょう。

武器を保管した禁足地

 前号で出雲国との「国譲り」交渉に臨んだ建御雷が、国の支配権を渡すのに抵抗した建御名方を破るという神話を紹介しました。その戦いで使われた刀剣の別名を「布都御魂」といい、その神剣を納めたのが石上神宮です。
 また、『記紀』や『釈日本紀』の垂仁 ※2 の条には、石上神宮に〈一千口の太刀を納めた〉〈新羅の王子・天日槍が渡来した際に持ってきた神宝などを石上神宮の神府に蔵む〉などと記されています。
 これらの記述から分かるように、石上神宮は武器を中心に納める蔵(=神府)、すなわち「古代の兵器庫」でした。本殿と神倉のある場所は今でも、踏み入ってはならない禁足地とされます。
 布留の地にある石上神宮は「布留社」「布都御魂神社」とも呼ばれ、古くこの地にいた布留氏の氏神でした。朝鮮語でプルは「火」で、コギ(肉)を火で焼けば「プルコギ」。つまり布留氏は火を扱う鍛冶氏族で、弥生期に香春の地(昨年6月号で紹介)に渡来した新羅系の銅精製技術集団に連なる一族との説もあります。※3 この地は「布留薬」と呼ばれる薬作りなども行われた手工業生産の集積地でした。
 布留の地から南へ進み桜井市に入ると、大和川のほとりに「仏教伝来の地」の碑や第29代欽明の磯城嶋金刺宮址があります。金刺とはその名の通り、金属加工を担った地。武器などが造られたのでしょう。

国家守護の2神宮 

 時代は下り、壬申の乱で甥の大友皇子を自害させ、第40代天皇となった天武は、即位した翌年(674年)に「祭祀の伊勢と軍事の石上」を「国家守護の2神宮」とします。※3
 石上神宮の祭主として蔵の管理を担ったのが、朝鮮渡来氏族との説がある物部一族の麻呂。※4 2月号(諏訪大社)で6世紀後半の仏教抗争による物部氏の滅亡を紹介しましたが、四散していた一族はこのとき「石上」に改姓し祭祀・軍政に返り咲きます。
 物部の「もの」とは武器のことで、「もののふ」といえば武士。物部氏が担った祭祀は「もののけ」(霊)とつながります。物部一族は高句麗系とされる大伴氏と共に5世紀以降の初期大和政権を支えた軍事戦闘集団であり、兵器製造集団でした。
 権力者の心性は古代からさほど変わらず、今も昔も「政の要は平和なり」とはいかないようです(つづく)

※1 『日本書紀』から200年余りあとに完成した『延喜式』神名帳には、「神宮」と名のつく神社は伊勢神宮と前号で紹介した鹿島神宮、香取神宮の3社と記されている
※2 垂仁は3世紀後半から4世紀前半の第11代大王とされる。ただ、没年が140歳や153歳とされ実在した人物かは不明
※3 畑井弘著『物部氏の伝承』(講談社学術文庫)に詳しい。畑井氏は674年が伊勢神宮と石上神宮の実質的な創建年とする
※4 上田正昭著『私の日本古代史(上)天皇とは何ものか~縄文から倭の五王まで』(新潮選書)などに詳しい

いつでも元気 2023.4 No.377