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いつでも元気

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造船記 
大槌町復興の軌跡

写真・文 野田雅也(フォトジャーナリスト)

被災した善福丸と船大工の東萬右エ門さん(右)。左手奥に見えるのが蓬莱島(ひょうたん島)=2011年11月2日、岩手県大槌町

被災した善福丸と船大工の東萬右エ門さん(右)。左手奥に見えるのが蓬莱島(ひょうたん島)=2011年11月2日、岩手県大槌町

 2011年3月の東日本大震災で、甚大な被害を受けた岩手県大槌町。
 三陸沿岸部のほぼ中央に位置し津波で住民の約1割が犠牲になりました。
 町の造船所を舞台に、復興の軌跡を12年にわたり記録してきたフォトジャーナリスト野田雅也さんの報告です。

 大漁旗に飾られた漁船の上で、威勢の良い祭り囃子とともに虎が跳ね鹿子が舞う。白装束の氏子たちが神輿を担ぎ小鎚川を渡ると、祭りの興奮は最高潮に達した。
 昨年9月、コロナ禍で途切れていた「大槌まつり」が3年ぶりに復活。震災の年は中止されたが、「祭りがなければ、復興もできない」という住民の声に押され2012年に再開。しかし、コロナ禍で20年から再び中断していた。
 コロナ禍の3年は、江戸時代から続く伝統芸能を大きく変えた。歴史を受け継いできた20団体のうち、祭りの参加は12団体に減少。高齢化に加え、舞手である若者や子どもが活動できず、活動休止や団体解散に追い込まれた。
 大槌町はNHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルになった蓬莱島や新巻鮭発祥の地として知られるが、震災で最大22mの大津波が大槌湾を襲い壊滅。1万5276人の町民の1割近い1286人が犠牲になり、民宿の屋根に載った観光船は津波被害の象徴として世界に発信された。
 震災から12年。嵩上げや高台移転など復興事業は完了し、巨大防潮堤が整備され、新築住宅が建ち並ぶ新しい街ができた。交通の要である三陸縦貫道や三陸鉄道が全線開通し、大槌駅や商業施設、娯楽施設もオープン。私は震災直後から大槌湾に面する「岩手造船所」に通い、復興までの道のりを記録してきた。

瓦礫の下に工具

 被災地で行方不明者の捜索が続く2011年4月6日、蓬莱島のある赤浜地区の海岸で、瓦礫から工具を拾い集める岩手造船所の船大工に出会った。海に面した造船所は津波で壊滅。修理のために陸揚げしていた15隻の船は、住宅地に打ち上げられたり海上を漂流していた。
 町は鮭の定置網漁や養殖業で栄えたが、漁船の9割以上が被災。漁師町の復興に船は欠かせない。急いで陸に上がった船を解体したり修復しなければならない。「早く造船所やんねばなんねえ」と、船大工は声を合わせた。
 町は流された家や電柱などが折り重なり、足を踏み入れることさえ難しい惨状。この時点では同じ地域で再び暮らすことは想像もできなかった。造船所社長(当時)の川端義男さん(69歳=以下、年齢は震災当時)は、何をすればいいのか見当もつかず、敷地内の瓦礫撤去から始めた。すると瓦礫の下から工具類に加え、船を引き揚げるレールと、動力になる船舶エンジンが見つかる。「これなら再建できる」と確信したという。
 船大工は海水に浸った機器類を川の真水で洗って整備し、瓦礫から集めた金属を加工して船の修理に必要な器具を作った。流れ着いた木材や鉄骨を利用して、小さな作業小屋も建てた。こうして被災地でもっとも早く事業を再開した造船所には、次々と被災した船が運び込まれるようになる。

届いた大樽入りの鮭

 船大工最高齢の東萬右エ門さん(81歳)は、寝たきりだった妻を津波で亡くした。全壊した自宅の寝室で、ベッドのそばで眠るように冷たくなっていた。人生を共に歩んできた妻への想いを胸に、再び造船所へ。「仕事場でパタッと逝ければ本望」と、流れ着いた杉の木を鉋で削り、漁に使用するタモ網の柄を作った。
 溶接担当の浜田喜成さん(53歳)は、造船所から軽トラックで避難する途中、黒い波にのみ込まれた。「一瞬、冷たいと感じたけれど感覚はそれだけ。水中で息が苦しくなり、家族の顔が頭をよぎった」。死を覚悟したが、赤浜小学校の校庭にある桜の古木につかまり一命を取り留めた。被災した13人の船大工は、それぞれの避難所や仮設住宅から通い、船の修復を続けた。仲間の前川勝雄さん(52歳)は行方不明のままだ。
 2012年1月、鮭の定置網漁が再開した。造船所で修復した久美愛丸が出港、魚を水揚げするタモ網は東さんが手作りしたもの。震災後初の水揚げは鮭1324本、魚市場は活気にあふれた。
 その翌日、船大工の弁当には焼き鮭が添えられ、白米にはイクラの醤油漬けがたっぷりと載っていた。漁師が「修復のお礼に」と、鮭を大樽に入れて届けてくれた。人と人が生業を通じてつながり合い、町が復旧に向けて動き始めたことを実感した。
 その後、大槌漁港に船が並び始めると、水産加工場や冷凍・冷蔵倉庫など、港の周辺に漁業関連施設が建ち始める。大漁と安全を祈願する大槌まつりも再開し、町に活力が戻り始めた。

赤浜の街づくり

 国や県が推進する大槌町の復興計画は、嵩上げと高台移転に加え、5階建てのビルに相当する高さ14・5mの巨大防潮堤が町を取り囲む案だった。しかし漁師町の赤浜の住民は、「コンクリートに囲まれては海が見えない」と国の政策に反対し、「赤浜の復興を考える会」を結成した。
 考える会は住民の意見をまとめ、防潮堤の高さは従来と変えずに高台に移転する独自の復興計画を作成。山を削り最大10m近い盛り土をして宅地を造成する大工事は、4年の歳月がかかった。
 一方、町の中心部では巨大防潮堤の建設と、浸水した町全体を2・2m嵩上げする復興計画が進められた。しかし所有者不明の土地もあり工事は難航。その間、仕事を求めて若い世代が町を離れ人口流出が加速、町の人口減少率は28・2%に及んだ。

震災の記憶と復興の教訓

 復興の過程では、津波の爪痕の残る建物を震災遺構として残すのかも常に議論になった。町には町長を含む40人の職員が犠牲になった旧・役場庁舎と、屋根の上に観光船の載った民宿が残っていた(観光船は既に撤去)。
 「見るだけでも辛い」と解体を求める意見と、「忘れないためにも残すべき」と保存を求める声で住民は二分、最終的に町の判断で解体が決定した。世代を超えて震災の教訓をどのように伝えるのか、今後の課題として残った。
 造船所は震災前の規模に復旧したものの、高齢で引退した熟練の船大工も多く、高齢化と人手不足という問題に直面している。
 町の津波による船舶被害は682隻のうち671隻に及んだ。復旧できた船は328隻と、半数の漁師しか漁を再開できず、漁業や水産業全体の規模は縮小。造船所は震災前、年間約120隻の修理や整備を手がけていたが、現在は半数以下に減少した。
 震災後の10年間で、国全体で総額38兆円に上る復興予算が使われ、うち13兆円が防潮堤や造成工事といった宅地整備に費やされた。しかし嵩上げ地の住宅はまばらで、大槌町では3割以上が空き地。予算は適切に使われたのか、誰のための復興だったのかを十分に検証し、復興事業の教訓も次世代へ伝える必要がある。

最後のシャッター

 震災から10年の2021年3月、多くの命を奪った大槌の海に、追悼の花火「白菊」が打ち上げられた。白い閃光が海面を照らすと、大切な人を想い手を合わせる人影が浮かび上がる。「すごいねえ」と小さな手を叩いて喜ぶ子どもたちの声も。人と人とが共に暮らす町に戻ったことを実感した瞬間だった。
 船大工の浜田さんは、この12年を振り返り「造船所を再建できるのか、半信半疑のまま目の前の仕事に集中してきた。今、漁港に並ぶ船を見て、ここまで復興できるとは想像もしていなかった。思い出の場所が無くなり寂しさもあるが、これから本当のまちづくりが始まるのだと思う」と語る。
 今年1月17日、私は赤浜の高台に立ち三脚にカメラを載せ最後のシャッターを押した。いつの日か、町に暮らしの明かりが灯る日を夢見て槌を打ち続けた船大工たち。いま夜空の下には明かりが輝き、蓬莱島の灯台が海を照らす。
 被災から人がどのようにして立ち上がるのか、誰がどうやって町を再建するのか。それを知りたいと思い撮影を続けてきた。「やんねばなんねえ」という船大工のかけ声から、いまこうして人と人がつながる温かい町が生まれた。
 私たちが住む街もきっと、「安心して暮らせるように」と、子や孫を想う先人たちが届けてくれた大切な贈り物なのだと思う。


写真集『造船記』(集広舎)
3月11日発売 
価格 3500円+税

造船記写真展(入場無料)
○大槌展 3月4~12日
 大槌町文化交流センター「おしゃっち」
○東京展 4月13~19日
 アイデムフォトギャラリー「シリウス」
 (東京都新宿区)

いつでも元気 2023.3 No.376