神々のルーツ
舟運と軍神「東国三社」
文・写真 片岡伸行(記者)
古代の関東東部には「香取の海」という内海が広がっていました。霞ヶ浦(茨城県)や印旛沼、手賀沼(ともに千葉県)を含む広大な一帯。
やがて、土砂の堆積で陸地ができると、利根川を挟んでトライアングル状に「東国三社」と呼ばれる神社が建ちました。
霞ヶ浦の北浦と鹿島灘に挟まれた地(茨城県鹿嶋市)に建つのが、全国に約600社ある鹿島神社の総本社・鹿島神宮。古くは常陸国(茨城県のほぼ全域)で最も社格の高い一宮でした。鹿島神宮は、利根川右岸にある下総国(千葉県北部など)一宮の香取神宮(千葉県香取市)、常陸利根川沿いに一の鳥居の建つ息栖神社(茨城県神栖市)と共に東国三社と呼ばれます。※1
「国譲り」に登場する3神
『常陸国風土記』によれば、常総地方(常陸国と下総国)と深い関わりをもつ祭祀職の中臣氏(藤原氏の旧姓・後述)が、この地に「香島(鹿島)の神」を祀るよう請願。惣領の高向大夫がこれを了承し、7世紀後半に社殿が建ちます。※2
高向氏はその名の通り、高句麗系の渡来氏族でしょうか。常陸国には古くから高句麗人が居住し、連載10回で紹介したように武蔵国に高麗郡が設置されると(716年)、ここから高麗人が移住していきます。
鹿島神宮の祭神は前回の諏訪大社で紹介した建御雷。雷神あるいは剣の神とされるタケミカズチは出雲国と「国譲り」の交渉に臨み、抵抗した建御名方と戦って勝利します。戦いに敗れたタケミナカタは諏訪の地に逃げ延びたと『古事記』は記します。
国譲りの交渉にタケミカズチと共に出雲に派遣されたのが、香取神宮の祭神・経津主で、『出雲国風土記』では布都怒志として登場します。「フツ」とは記紀神話に登場する神剣「布都御魂」を表し、フツヌシは軍神とされます。
一方、息栖神社の主神は久那斗神。クナドとは「来などころ」のことで、「これ以上来てはならない場所」を示します。外敵や邪霊が侵入するのを防ぐとともに道中安全の守り神です。このクナドが国譲り交渉に向かうタケミカズチとフツヌシの先導役を務めました。
東国三社はいずれも利根川下流という舟運の要所にあり、物資輸送など東国開拓の拠点・水郷の地として栄えました。しかし、“別の顔”もありました。
東北・蝦夷征討の拠点
781年に即位した第50代桓武天皇の2大国家プロジェクトは、平安京の建設と東北にいた蝦夷の征討でした。蝦夷とは国譲りに抵抗し各地に散った出雲族との説もあります。※3 大和朝廷は陸奥国(福島県以北)を治める陸奥守を派遣していましたが、8世紀末になっても東北全域を支配できず、激しく抵抗する蝦夷とヤマト王権との熾烈な戦いが続いていました。
蝦夷との戦いで、軍事物資を水運で補給する最前線の拠点となったのが鹿島神宮と香取神宮でした。東北蝦夷の英雄とされる阿弖流爲が最終的に降伏したのは9世紀初め(802年)で、ヤマト王権との30年戦争にようやく終止符が打たれました。平安京遷都の8年後のことです。
藤原氏の氏神に
鹿島神宮にほど近い地に建つ鎌足神社は中臣鎌足の出生地との説があります。鎌足は臨終(669年11月14日)の前日に「藤原」に改姓し、藤原氏の祖となります。その後、全盛期を迎えた藤原氏は768年に春日大社(奈良市)を創建。ここに鹿島の神(タケミカズチ)と香取の神(フツヌシ)を祀り、藤原氏の氏神としました。縁深い東国の神を一族の支えにしたのです。
しかし、12世紀初めの平安時代末期にかけて王権が衰退すると、栄華を誇った藤原氏の権勢も後退。やがて平氏・源氏の武家政権へと移行していくのです。(つづく)
【お詫びと訂正】1月号「百済から来た海神」の冒頭で、「しまなみ街道」とあるのは「しまなみ海道」の誤りでした。編集部の確認ミスです。お詫びして訂正します。
※1 927年完成の『延喜式』神名帳で「神宮」と記されるのは伊勢、鹿島、香取の3社のみ。江戸時代には関東以北の人たちが伊勢神宮参拝の帰りに東国三社に立ち寄る慣習があり、「下三宮参り」と呼ばれた
※2 秋本吉徳全訳注『常陸国風土記』(講談社学術文庫)に詳述。大夫(まえつきみ)とは上級官人のこと
※3 昨年10月号で紹介。高橋克彦著『東北・蝦夷の魂』(現代書館)に詳しい
いつでも元気 2023.3 No.376