神々のルーツ
征服と抵抗のクロニクル
文・写真 片岡伸行(記者)
「祈りの場」には、さまざまな神話や伝承が積み重なり、古層のごとく埋もれています。
今となっては事実を確定するのは困難ですが、暗がりを覆うベールを一枚ずつ剥ぐようにして、諏訪大社の古層に分け入ってみましょう。
6年に一度の勇壮な神事「御柱祭」で知られる諏訪大社。全国に約1万数千社あるとされる諏訪神社の総本社です。長野県のほぼ中央にある諏訪湖に臨む古社で、創建は不詳。古くは信濃国で最も社格の高い一宮でした。
湖の南側に上社本宮(諏訪市)と前宮(茅野市)、北側に下社秋宮と春宮(ともに下諏訪町)のある「二社四宮」からなります。
出雲から来た? タケミナカタ
諏訪大社の祭神は「諏訪大明神」とも呼ばれる建御名方。出雲大社に祀られる大国主の二男とされます。出雲族がなぜ諏訪にまでやって来たのでしょう。
大国主の長男・事代主はヤマト王権への国譲りを認めて服従。二男のタケミナカタは抵抗し建御雷に戦いを挑みますが、敗れて「州羽海」(諏訪湖)まで逃げ延びたというのです。『古事記』にのみ記されるこの神話は、ヤマト王権の力を誇示するために脚色された疑いがあるともいわれます。
新潟県糸魚川市に残る伝承では、タケミナカタは大国主と北陸地方の高志国(越国)※1の沼河姫との子。ヤマト王権の支配が及ばなかった時期、糸魚川は翡翠の産地として栄え、北ツ海(日本海)を通じて出雲国と交易がありました。沼河姫は同地の翡翠を支配する祭祀の女王だったようです。その子・タケミナカタは糸魚川市を流れる姫川を遡り、諏訪の地に着いたとされます。
この伝承によれば、タケミナカタは出雲ではなく高志国から来たことになります。翡翠(を使った祭祀支配)を広げるためにやって来たのでしょうか。古代において祭祀権は統治権と同義でした。諏訪大社には沼河姫も祀られています。
物部氏と守矢氏
一方、諏訪地方の神話ではタケミナカタは征服者で、先住していた「洩矢の神」(守矢氏の遠祖)から激しい抵抗を受けますが、やがて平定。タケミナカタの子孫は大祝(生き神様)となった諏訪氏で、守矢氏に諏訪大社の祭祀を委ねることで諏訪の地を治めることができたとされます。
守矢氏には、朝鮮渡来氏族とされる初期大和朝廷の豪族・物部氏との関係を示す家伝が残ります。仏教を受容しようとする大臣・蘇我馬子と、それに反対した大連※2・物部守屋の仏教抗争を「丁未の乱」(587年7月)と呼びますが、この戦いで守屋宗家は滅亡。しかし、守屋の子・武麿が諏訪の地に逃げ延び、守矢家に養子入りしたとされ、守矢家の系譜27代に「弟君」と記される武麿の名があります。※3
守屋神社とミシャグジ信仰
本殿のない諏訪大社のご神体は諏訪市と伊那市の境に聳える守屋山。その南麓、伊那市高遠町に建つのが物部守屋神社で、落ち延びた一族が守屋を追慕して祀ったといわれます。守屋姓が多いという同地域は青石(輝緑岩)の産地で、全国に名を馳せた「高遠石工」がいましたが、名工を代々輩出してきたのも守屋家でした。
また、諏訪を発信地に全国へと広まったのが石や樹木を精霊として崇める「ミシャグジ信仰」※4。諏訪大社上社の筆頭神官(神長官)としてその神事を司ったのが守矢氏でした。ミシャグジ信仰は最も原初的な信仰とされ、外部から征服されても途絶えることなく生き続けてきました。
征服と抵抗のクロニクル(年代記)に彩られた諏訪の地は、諏訪大社という祈りの場をもつことで一つのまとまり(=協調と連帯)を形成してきたのです。御柱祭はその象徴のように見えます。(つづく)
※1 現在の福井県敦賀地方から新潟県、山形県庄内地方の一部まで。8世紀初めに分割され、越前、越後、越中、能登、加賀の国に。昨年12月号参照
※2 大臣は大王の政務を補佐する執政官、大連は王権の軍事を司る役職
※3 『神長官守矢史料館のしおり』(守矢史料館発行)の「守矢家系譜」より
※4 シャグジ信仰ともいい、長野県に関連神社が集中。東京都練馬区の地名「石神井」が有名で、ここには石神井神社がある
いつでも元気 2023.2 No.375
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