厳冬のウクライナ
文・写真 丸山美和(ルポライター)
2022年2月24日、ロシアのウクライナ侵攻が始まりました。それから10カ月、ポーランド在住のルポライター丸山美和さんは、継続的にウクライナ難民支援の現場を取材してきました。戦争の被害だけでなく、支える側の人々の姿も伝えるためです。長引く戦禍のもと、厳しい冬を迎えたウクライナ。東部の激戦地に入った丸山さんのルポです。
※支援の様子は2022年10月現在。ロシアは11月、ウクライナ国内の水道や電力設備へのミサイル攻撃を開始、国内では大規模な停電が起きている。水やガスの供給が止まった地域も多く、冬は氷点下まで下がる寒さのなか、ウクライナ国民の生活は極限まで追い詰められている。
ポーランド南部の都市、クラクフの市議会議員ウカシュ・ヴァントゥフに出会ったのは8月末のこと。ウカシュはロシアによるウクライナ侵攻が始まって数日後に人道支援を開始。輸送経路が断たれた激戦地やウクライナ軍が奪還した直後の集落などへ、食糧や衛生用品などを届けてきた。
ウカシュに「明日、ウクライナ西部のリビウへ支援に行きます。一緒にいかがですか」と誘われた。リビウには激戦地のウクライナ東部から逃れてきた大勢の難民が生活していた。住宅地には難民用の仮設住宅も建てられており、幼い子どもの姿も多かった。
難民はウクライナの国内にも大勢いることに気づいた。国外へ逃れた人々より貧しく、移動手段もないため国内にとどまっている。リビウはまだ良いほうで、さらに多くの貧しく弱い人々が何カ月も激戦地で孤立している。戦争によって日常生活を奪われた人は、すべて難民だと思った。
その後、ウカシュは次の支援を計画した。行き先は9月にロシア軍から解放されたばかりの東部のハリコフ州と、ロシアが一方的に併合を宣言したドネツク州だ。
ハリコフ州はハリコフ、クピャンスク、イジュームへ。ドネツク州はフレスティシチェを経由してスラヴィヤンスクへ行くという。いずれも激戦地だが、私は迷わず同行を願い出た。生死の境で助けを待つ人々を支援する現場を、この目で確かめたかった。
ヒマワリが泣いていた
10月1日朝、ハリコフに向かうため、支援の一行がクラクフを出た。数時間ごとに運転手を交代しながら、24時間ほぼノンストップで走り続ける。首都キーウを過ぎて東に向かう頃から街灯が消えた。夜空には満点の星がいまにも降り出しそうに瞬いている。東日本大震災が起きた日、停電した栃木県宇都宮市の自宅で見た夜空と同じだった。
ハリコフに近づくころ、夜が白んできた。それと同時に窓の外に現れたのは不気味な青黒い平原。ウクライナのシンボル、ヒマワリ畑をロシア軍が焼き尽くしたのだ。花びらも葉も焼かれ、黒い種だけが残った大きなヒマワリが、悲しそうにうなだれていた。映画でも観たことがない光景に、恐怖が湧き上がった。
クラクフを出てから約20時間、ハリコフに入った。市街地は機能しており、鉄道や路面電車、バスも運行していた。商店の多くは破壊されたが、スーパーやコンビニがわずかに営業しており日常生活が戻りつつある。主要道路はバリケードを左右交互に設置、随所に検問の兵や警官がいてロシア軍の侵入を防いでいた。
続いて一行は戦闘の最前線から15km、ロシアとの国境から40kmにあるクピャンスクへ向かった。道中で突然、防弾チョッキとヘルメットの着用を義務付けられた。道の両側は要塞と塹壕で盛り上がっていた。道路の脇へ足を踏み出すことは厳禁。ロシア軍が至る所に地雷を隠していったからだ。どこか分からないが、ミサイルが着弾した爆発音も何度か聞こえてくる。「激戦地に来ている」という現実を強烈に感じた。
クピャンスクの市街地はむごたらしく破壊されていた。線路は破壊され、商店街は黒焦げ。横転した自動車が道路の真ん中に放置されていた。街には色がなく、がれきの灰色と爆発の黒が強烈に脳裏に焼き付く。つい最近まで人々が行き交い、日常生活が営まれていた街とは思えなかった。
渡せなかった支援物資
クピャンスクで孤立した住民がいる団地にたどり着いたが、人の気配がない。一行が車のクラクションを鳴らすと数人現れ、次第に住民たちが団地から出てきた。どの表情もこわばり怯えきっている。ロシア軍がいつ戻ってくるのか、不安だったのだ。
クピャンスクの住民はガスも電気も水道も失いながら、息を潜めて生き延びていた。頭髪は乱れ服も汚れている人が多かった。女性たちが両目を大きく開き、両手を伸ばして私に近づいてきた。背中をさすりながら「もう大丈夫」と声をかけると、声を震わせて「ありがとう」と泣き出した。
物資が余ったので、予定していなかった団地に出向いた。ところが支援の話を聞きつけた住民が予想以上に集まっていた。配布できる物資が40に対し、住民の数は約200人。住民たちはわれ先に物資を受け取ろうと、輸送車を取り囲んだ。誰もが必死の形相だ。
一行は物資の配布を断念した。受け取れない人が、どのような行動に出るのか分からないからだ。運転手がクラクションを鳴らしながらエンジンをかけた。
「行かないで」「食べ物を置いていって」。降り出した雨の中、住民たちが車の窓を叩きながら叫ぶ。助けを求める人々から逃げる苦しさと申し訳なさで、私は窓に顔を向けることができず、うつむいていた。
一行は押し黙ったまま走り去った。車中で誰かのすすり泣く声が聞こえた。
虐殺の現場
その晩、私たちはハリコフのホテルに泊まった。翌日は朝から空襲警報が鳴り響いたが予定を続行。ハリコフから南へ約124kmのイジュームへ向かった。
道中、青い空と白い雲の下に見渡す限りの平原が広がっていた。本来のウクライナは広大で美しい国だ。ロシア軍の爆撃で穴だらけの道路を慎重に進むと、前方に街らしきものが見えてきた。しかし近づくにつれ、尋常ではないことが分かり、思わず声をあげた。
家々の屋根や窓が爆風で吹き飛ばされ、黒く焼け焦げた柱がむき出しで立っている。人々が消え廃墟と化した黒い集落が現れては消え、数十kmも同じ光景が繰り返された。焼け焦げた異様なにおいが終始鼻を突く。
集落で数カ月前まで営まれていた日常生活を思った。子どもたちのはしゃぎ声、家族で囲む食事の湯気、青空にはためく洗濯物。悲しみで涙がほほを伝った。
路上には、爆破されたロシア軍の戦車が放置されたままだった。ロシア軍が襲撃したとみられる自動車や路線バスも転がっていた。
イジュームに入ると、私たちを先導していたウクライナ兵の車が止まった。促されるまま下車し、森に向かった。
大きな穴が一面に広がり、掘り返されたばかりの新しい土が盛り上がっている。それぞれの穴には拷問などで虐殺された人々が埋まっていた。男性や兵士だけではなく、女性や小さな子どもまでもが皆殺しに遭った。一つの穴に18人が埋められており、合計で約450人の遺体が見つかった。
森には終始、不気味な風が吹いていた。風の冷たさがロシア軍の残忍さを想起させた。亡くなった人々の悲しみと無念を思い、手を合わせた。
連帯の気持ちを届ける
世界各地で戦争や紛争が絶えないまま、2023年を迎える。戦争のニュースは戦況に偏りがちで、生存の危機にある住民の苦境や慟哭はかき消されてしまいがちだ。
それを許さないのが今回の人道支援。戦争は最大の人権侵害であり、難民や孤立した住民たちは最大の被害者だ。どの命もかけがえがなく、一人も失ってはならないことを、支援を通して世界に訴えるのは大切な活動だ。
届けるのは物資だけではない。「あなたは大切です。頑張って生き抜いて」という気持ちもまた、届けている。絶望と苦しみの淵で生き延びた人々にとって、連帯の気持ちは大きな励ましと生きる力になる。
支援は常に危険と隣り合わせだが、それでも助けに行く。助けを待っている人たちと出会い、心を通わせる瞬間は感動的だった。「ありがとう」と感謝しながら大声で泣く住民の姿を、現地で何度も目にした。支援ボランティアの一人がこう言った。
「困った人に手を差し伸べる行為は、助ける人も助かった人も幸せになれる。ぼくたちがしていることは、日常生活の延長に過ぎないんだよ」。
命を大切に思う一年に
ひるがえって、日本社会はどうだろうか。今のところ紛争には巻き込まれていないが、困りごとを抱えたまま、どれだけの人がひっそりと亡くなっていくのか。年間2万人を超える自殺者数を思うと、武器のない無言の戦争が続いているように見えなくもない。
困っている人を見ても手を貸さず、見て見ぬふりをすることは最も冷酷な行為だ。人を助けない社会は最後の希望を奪う。誰もが「助けて」と言いやすい社会になってほしいし、助けを求めることに寛容であってほしい。
命を大切に思うことは、戦争とは真逆の行為だ。全ての命が唯一無二の存在で、絶対に失われてはいけない。この思いが私たち一人ひとりに強くなれば、戦争に抗う大きな力になるはずだ。
2023年は、目の前で困っている人々を助けることから始めたい。互いが無事に生きている喜びをより多くの人と共有し、絶望と憎しみだらけの戦争に敢然と立ち向かいたい。私たちにはそれができると信じている。
いつでも元気 2023.1 No.374