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いつでも元気

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神々のルーツ 
百済から来た海神

文・写真 片岡伸行(記者)

愛媛県今治市の大三島にある大山祇神社

 古代、朝鮮半島からの海路は対馬海流に乗って北九州や山陰、北陸へ至る「北ツ海ルート」のほか、九州側から瀬戸内海を抜けて畿内に入る「瀬戸内海ルート」の大動脈もありました。
 海上交通の要所に“海の神”が祀られています。

 広島県福山市から高速バスで「しまなみ街道」に入り、瀬戸内海に浮かぶ島々を眺めながら走ること約1時間。愛媛県最大の島・大三島(今治市)に着きます。

大山祇は「大和族の一派」

 古来、神の島と呼ばれてきた大三島。島の中央にそびえる鷲ヶ頭山をご神体とするのが大山祇神社です。6世紀末の創建と伝わり、全国にある大山祇神社の総本社。大山祇神を祀る三島神社や山神社などは全国に約1万社あるとされます。
 古くは「大山積神社」と記され、中世に伊予国(現在の愛媛県)で最も社格の高い一宮に。現在の社名になったのは明治の初めです。祭神の大山積神は『古事記』と『日本書紀』では山の神であり、後述する『伊予国風土記』では海の神とされます。
 連載7回目で紹介した岡山県吉備郡教育会発行の『吉備郷史』に〈大和族とは大山祇、高千穂、出雲の3派〉とあり、大山祇は大和族の一派として最初に列島へ移住して各地に散った海神族(海部)とされます。そもそもオオヤマツミはどこから来たのでしょう。

半島からの渡海の神

 『釈日本紀』※1に〈伊予国の風土記にいう〉として、こう記されています。
〈大山積の神、またの名を和多志(渡海)の大神〉〈この神は百済の国から渡っておいでになり、摂津の国の御島においでになった〉※2
 和多志の「ワタ」は海の古語で、古代朝鮮語でも「パタ」(ハタ)は海の意。オオヤマツミは朝鮮半島南西部の百済から九州の北部を経て、瀬戸内海ルートでやって来た大和族の一派が祀った海神ということになります。
 「摂津の国の御島」とは、現在の大阪府高槻市三島江。同地にある三島鴨神社の祭神も「大山祇」です。※3 社伝によれば、第16代仁徳天皇(4世紀末から5世紀前半に実在したといわれる大王)が淀川沿いに堤防を築く際、淀川鎮守の神として百済から遷し祀ったとされます。古代の大阪湾にあった難波津(港)は瀬戸内海ルートで畿内に入る玄関口で、大陸や半島からの船がここにやって来ました。
 伊豆半島の付け根(静岡県三島市)にある三嶋大社の祭神も「大山祇」。瀬戸内海と同様に島と海の国である伊豆国の造島神・航海神として祀られたのが起源とされ、大山祇神社との関係も指摘されます。

海の民と国生み神話

 日本神話では、列島の島々を創成したのはイザナギとイザナミ。兄妹の2人はやがて夫妻となって「大八島」と呼ばれる8つの島などを次々に生んでいきます(=「国生み神話」)。2人が最初に生んだのが淡路島で、ここにイザナギとイザナミを祀るおのころ島神社(兵庫県南あわじ市)があります。※4 2番目が「伊予之二名島」(四国のこと)でした。瀬戸内海の島々が「国生み神話」の発祥地ということになります。
 1万年以上前の縄文時代初め、最終氷期が終わると地球規模での温暖化が進みました。海面が上昇し、列島の島々に漁労や交易のために海洋民が船でやって来ました。弥生期に稲や青銅・鉄が朝鮮半島経由で流入したのも海の民による船での渡来です。温暖化で植生の繁茂した道なき道(陸地)を進むより、船で沿岸や川、島々の間を移動する方がはるかに楽だったでしょう。
 コロンブスがアメリカ大陸を“発見”したように、国生み神話は海の民による列島の発見譚を物語っているようです。上陸した島や海近くの陸地・高台に海路を見渡せる祈りの場を設けたのでしょう。オオヤマツミは海神族の足跡を示す地に祀られているようです。(つづく)

※1 『日本書紀』の注釈書として鎌倉時代に編纂、全28巻
※2 吉野裕訳『風土記』(平凡社ライブラリー)の「伊予国」より抜粋
※3 同じく高槻市の鴨神社の主祭神も「大山積」
※4 おのころ島は「自凝島」と表記され、「おのずと凝り固まった島」との意

いつでも元気 2023.1 No.374