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いつでも元気

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神々のルーツ 
北陸に来た“額に角のある人”

文・写真 片岡伸行(記者)

敦賀駅前に立つ「都怒我阿羅斯等」(ツヌガアラシト)の像。敦賀ライオンズクラブの結成20周年を記念し1982年に建てられた

敦賀駅前に立つ「都怒我阿羅斯等」(ツヌガアラシト)の像。敦賀ライオンズクラブの結成20周年を記念し1982年に建てられた

 古代の九州、山陰、北陸地方は朝鮮半島からの海路の玄関口でした。
 まだヤマト王権の支配が北陸にまで及んでいない時期、越国敦賀の地に、「額に角のある」異形の人が、一隻の船に乗ってやって来ました。

 北陸本線敦賀駅(福井県敦賀市)に降り立つと、蒼古たる風貌の像が出迎えてくれます。台座には「都怒我阿羅斯等」との名が。ツヌガアラシトとは何者なのでしょう。

加羅の国の王子

 『日本書紀』垂仁の条はこう記します。
〈御間城天皇(=後述する崇神の名)の世に、額に角のある人が一つの船に乗って、越国の笥飯の浦に着いた。ゆえに、そこを名づけて角鹿という。〉
 「どこの国の人か?」と尋ねると、「額に角のある人」は答えます。
〈大加羅の国の王の子、名は都怒我阿羅斯等。〉…。
 「牛頭の冠」をかぶっていたので角に見えたのでしょう。それが地名の由来で、角鹿は敦賀の古名。笥飯の浦とは敦賀湾の気比の松原あたりです。
 1世紀から6世紀ごろまで朝鮮半島南部にあった小さな国の連合体を伽耶または加羅といい、なかでも有力な国を「大加羅」と称しました。加羅や新羅の最高の官位が「角干」で、訓読みだと「ツヌカン」。これが「ツヌガ」の意味のようです。※1
 加羅諸国の南部の地域は「任那」と呼ばれました。崇神は3世紀から4世紀前半に大和地方にいたとされる大王※2で、その名が「御間城入彦」。「任那から来て(=ミマキ)婿に入った(=イリビコ)」との説に従えば、崇神の出身は任那ということになるでしょう。※3
 まだ日本という国号はなく倭国と称した当時、現在の日本海は「北ツ海」と呼ばれました。ツヌガアラシトは、その北ツ海ルートで笥飯の浦に着いたというのです。

敦賀を治めたアラシト

 敦賀湾からほど近い氣比神宮(敦賀市)の別名は「笥飯宮」。古くは越前国(現在の福井県北東部)で最も社格の高い一宮で、境内東側には都怒我阿羅斯等を祀る角鹿神社も建ちます。
 氣比神宮の祭神・伊奢沙和気は連載5回目で紹介した新羅の王子・天日槍とされます。※4 天日槍はツヌガアラシトが来てから5、6年後に新羅から渡来し、越前国の隣、若狭国(福井県南部)にも住みました。※5 若狭は古代朝鮮語の「ワ・ガ(カ)・サ」(行き・来・する)との説があります。
 敦賀の地には信露貴彦神社(=新羅の彦の意)や白城神社があり、南越前町には新羅神社や白鬚神社も。加羅に加え新羅とも深い縁をもつ地なのです。
 『氣比宮社記』によると、アラシトはこの地の祭政を治め、のちに国造となる角鹿氏と嶋氏はその子孫。政務を執りおこなった地に建てられたのが角鹿神社です。

新羅系との対立

 敦賀を治めて5年ほどして、アラシトは崇神の次の大王・垂仁からの贈り物を手に帰国しますが、途中でそれを新羅人に強奪されるという話が『日本書紀』に出てきます。新羅との敵対関係を示す逸話です。
 新羅に関しては、朝鮮半島の歴史書『三国史記』の「新羅本紀」に、3世紀から4世紀にかけて倭人がたびたび船で半島に攻め入り、強奪や殺戮、拉致などを繰り返していたことを示す記述があります。
 列島内においても、当時、大和・山城・河内などを中心とする地方勢力の一つに過ぎなかったヤマト王権は、北ツ海側(日本海側)にあった新羅系の出雲国と対立していました。
 同じ任那・加羅系の崇神とアラシトは列島内外の新羅勢力に対抗するために手を結んだのでしょうか。当時は北ツ海側が「表日本」でした。その要衝・敦賀は地政学上極めて重要な地だったのです。(つづく)

※1 上田正昭著『私の日本古代史(上・下)』(新潮選書)に詳しい。
※2 「天皇」は7世紀後半以降の称号。
※3 上垣外憲一著『倭人と韓人 記紀から読む古代交流史』(講談社学術文庫)に詳しい。
※4 岡谷公二著『神社の起源と古代朝鮮』(平凡社新書)などに詳しい。
※5 『日本書紀』によれば、天日槍は播磨国(兵庫県南西部)に着いてから近江国(滋賀県)、若狭国(福井県南部)に住み、但馬国(兵庫県北部)に腰を落ち着けた。同地の出石神社に祀られる。

いつでも元気 2022.12 No.373