沖縄医療生協50年
文・新井健治(編集部) 写真・大橋愛
沖縄が本土に「復帰」※したのは1972年5月。
その5カ月後の10月、沖縄医療生協が誕生しました。
“いのちは平等”の理念を真っ直ぐに掲げ、沖縄の戦後とともに歩んだ半世紀を紹介します。
沖縄で民医連が産声をあげたのは1970年12月、「沖縄民主診療所」が那覇市に開設された。古い民家を借り、職員は医師2人、看護師2人を含めわずか9人。それから50年以上をへて、沖縄医療生協の職員数は1727人、組合員数は72年の1521人から9万8365人(7月時点)まで増えた。
沖縄民主診療所(現・那覇民主診療所)に医師として71年に赴任し、沖縄医療生協の基礎を築いた仲西常雄さん(78歳)は「当時の医療環境は極めて劣悪だった」と振り返る。
県民の4人に1人が亡くなった45年の沖縄戦。県内の医師数も終戦直後は64人まで激減していた。その後も米軍統治下で県民の権利は認められず、本土復帰当時の病床数は全国平均の3分の1、医師、看護師数は4割だった。
那覇市には約26万人が住んでいたが(70年)、夜間は救急を担う病院がなく、患者を救急車で市外の病院に運ぶ途中で亡くなることもあった。沖縄民主診療所は県内で初めて、午後8時までの夜間診療を始めた。
市内には往診する医療機関もなかったため、毎日取り組んだ。当時の往診は今とは全く違った。「脳卒中で倒れた、吐血した、喘息の重い発作が起きたなど、今なら即入院。でもお金がないから『絶対に入院できない』という患者さんが多く、やむにやまれず往診で対応した」と仲西さん。
新型コロナ第7波渦中の8月、民医連は45期第1回評議員会で「まず診る、援助する、何とかする」との方針を改めて確認した。沖縄民主診療所ができた時も、患者は理屈抜きにまず診て、何とかしなくてはならない状況。仲西さんら民医連職員は「患者の要求に応える」との姿勢をずっと貫いてきた。
こうした姿勢が県民の共感を呼び患者は急増。診療所の開設からわずか6年後、76年に沖縄協同病院がオープンした。本土でも診療所から病院に発展する例はあるが、これほど短期間は珍しい。劣悪な医療環境に耐えてきた県民の要求が強かったことの証しだ。
源に“夢のある計画”
1972年に発足した沖縄医療生協はその翌年、「第1次長期10カ年計画」を策定した。500床の基幹病院と8つの診療所をつくる壮大な計画。自治体や銀行の沖縄医療生協への信頼と組合員の協力で建設資金が集まり、着々と実現した。沖縄協同病院は開設当初の139床から365床に増床(現在は280床)。中部協同病院、とよみ生協病院もオープンし病院は3つに。診療所は計6つになった。
「夢のある計画を立てたからこそ職員はやる気になり、成功の源になった。当時は給料は安く、休みも少なかったが、みんな希望を持って働いていた」と仲西さん。
沖縄医療生協はその後も斬新な事業を次々と展開。訪問リハビリ、労災職業病認定、夜間透析、出張健診、患者会活動など、いずれも“県内初”。やむにやまれぬ往診と同じく、患者の要求に応えたものばかりだった(表)。
沖縄協同病院は2010年、無料低額診療事業を県内で初めて行い、いまでは3病院、6診療所全てで実施。県内で無低診を行うのは沖縄医療生協だけで、県民の要求に寄り添う姿勢を貫いている。
県内有数の企業へ
仲西さんは沖縄協同病院院長、沖縄民医連会長、沖縄医療生協理事長をへて、2007年から訪問診療を担当。「介護施設に入りたくても入れない」という高齢者の現実を目の当たりにする。沖縄民医連は13年、介護でも県民の要求に応えようと「社会福祉法人沖縄にじの会」を設立。仲西さんが理事長を務める。
今年4月には地域密着型複合施設「わらてぃーだ」がオープン。法人設立からわずか9年で6事業所になった。沖縄医療生協、メディコープおきなわ、沖縄健康企画を合わせた事業所数は25にのぼり(図)、4法人全体の職員数は2103人に及ぶ(7月時点)。
沖縄医療生協の年間総事業費は148億円で、全国の医療生協では埼玉に次いで2番目。県内でも有数の企業に成長し、経済や雇用の面でも地域に貢献している。
仲西さんは「規模こそ大きくなったが、“いのちは平等”の基本は変わらない。私たちは何のために仕事をしているのか。次の50年に向け、若い職員には沖縄という社会、患者、組合員の現状をしっかり見つめてほしい」と話す。
次の50年へ
「私は若い皆さんを信じる」
7月の参院選で改憲勢力が3分の2を超えた。政府は憲法9条を変え、自衛隊を本格的な軍隊にしようとしている。ウクライナ情勢が影響し、国民の間にも「力には力で対抗すべき」との考え方もある。全国の米軍専用基地の7割がある沖縄は、日本の矛盾が集中する地域。沖縄からは世界と日本の置かれた状況がよく見える。
沖縄医療生協副理事長の大城郁男さん(75歳)は「改憲を巡る綱引き、そして“平和か軍拡か”の価値観の争奪戦が、今まさに始まろうとしている」と指摘する。
県民の反対を無視して建設を進める米軍の辺野古新基地(名護市)だけでなく、石垣島、宮古島などにも自衛隊基地が次々とできている。いずれも“対中国”を想定し、米軍と自衛隊が一体となって戦う前線基地だ。
紛争が始まれば、基地がある地域が真っ先に攻撃される。それが沖縄戦の教訓だった。「原点は沖縄戦。戦争とは何かを知っているからこそ、沖縄から語らなければいけない」と大城さん。
“第2の沖縄戦”
大城さんは終戦直後の1947年生まれ。県民は沖縄戦で根こそぎ生活基盤を奪われ、戦後も大変な貧困の中を生きてきた。ロシアのウクライナ侵攻で多くの人が難民になったが、沖縄でも戦後、家や家族を失い苦労した世帯が多かった。
大城さんも母子家庭で育った。「経済的にはもちろん、普通の生活を送ることができなかった子どもが多い。出生時から差別され、一人の人間として幸せに生きる権利を奪われる。それが戦争です」。
こうした“第2の沖縄戦”ともいうべき体験をした世代が、希望のある未来を求めて戦後の沖縄をつくった。就職すれば労働組合に入り、社会的な運動をするのが当たり前の時代。大城さんも高校の英語教師として労働組合に加入し、積極的に平和運動を担った。
1960~80年代に頑張った世代が高齢化する一方、戦争を知らない人が増えている。今後の担い手づくりは大きな課題だが、大城さんは「いまこそ沖縄医療生協の出番ではないか」と言う。
医療生協の強みは組合員同士のつながり。誰でも関心のある健康をテーマにつながりをつくり、そこから平和や憲法にも話題を広げることができる。「心がつながっていれば、何でも語ることができる。選挙の時のように大勢に語るのではなく、小さなコミュニティーで、茶飲み話で語ることが大切ではないでしょうか」。
何のために、誰のために
コロナ禍で観光業が中心の沖縄経済は大きな打撃を受けた。子どもの貧困率は3割近くとコロナ前より悪化。基地が街の中心部に居座るため産業は育たず、県民所得も全国最下位のままだ。
「最近は島に誇りを持つ若者が増えている。基地をなくせば、もっと幸福になれる。県民の苦しみの大本に基地があることを忘れてはいけない」と大城さん。
大城さんには1歳から20歳まで9人の孫がいる。2番目の孫は昨年、沖縄尚学高校野球部の4番打者として甲子園に出場した。「孫の世代のためにも、沖縄を戦場にしてはいけない」。
沖縄医療生協ができて50年。何のために、誰のために、誰がつくった医療生協なのか。医療でも介護でも、その根源にあるのは“命どぅ宝”。「いのちこそ大切」の精神は、軍拡が狙われている時代にあって、ますます輝きを増している。
次の50年へ。大城さんはきっぱりと語る。「私は若い皆さんを信じている。沖縄の矛盾に満ちた状況を学べば、ツイッターやユーチューブなど新しい方法を駆使して仲間とつながり、必ず矛盾を突破してくれる」。
※本土復帰 米軍統治から施政権こそ返還されたが、基地のない平和な島を望んだ県民の思いは無視された。返還後も日米地位協定で米軍が優先され、米兵犯罪や騒音被害、環境汚染など基地に関わる問題を解決できず、県民には本当の復帰とはいえないとの思いが強い。
いつでも元気 2022.10 No.371