神々のルーツ
血と汗にじむ開拓の地
文・写真 片岡伸行(記者)
弥生時代後期の日本列島の人口は約60万人。
以後数百年の間に爆発的に増え、8世紀初めの奈良時代には450万人ほどになりました。※1
水稲農耕社会の拡大が主な要因とされますが、朝鮮半島からの移住者の急増も背景にあります。
埼玉のJR大宮駅東口から少し歩くと、美しい欅並木に囲まれた広い参道が北に向かって延びています。素戔嗚などを主祭神とし、埼玉県と東京都近郊に約280社ある氷川神社。その総大社が約3万坪の敷地をもつ大宮の氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区)です。
出雲国から武蔵国へ
素戔嗚が朝鮮半島の新羅から出雲国(現在の島根県東部)にやって来て、簸川(斐伊川)を船で上り鳥上山(船通山)の麓に着いたという『日本書紀』の記述を前号で紹介しました。氷川の名はこの「簸川」から採られたとの説があります。社伝によれば、氷川神社は出雲族と呼ばれる出雲国からの移住者の氏神で、出雲大社(島根県出雲市)の祭神・大国主も祀っています。
日本海側に一大文化圏を築いていた出雲国は、ヤマト王権に敗れて国の支配権を譲りますが(=『古事記』『日本書紀』にある国譲り神話)、その交換条件として建立されたのが出雲大社とされます。
しかし、ヤマト王権の支配に屈せず、列島各地に散った出雲族がいました。そのうち東北に行き着いた出雲族が蝦夷になったとの説※2があり、それを裏付けるように出雲と東北の方言(いわゆるズーズー弁)は同じであるとの研究もあります。※3
古代の武蔵国は現在の東京都と埼玉県全域に加え、神奈川県横浜市と川崎市を含む広大な一帯で、氷川神社や大國魂神社(東京都府中市)など出雲系の古社が多いのが特徴です。しかし、武蔵国に移住してきたのは出雲族だけではありません。
高麗郡、新羅郡の設置
『日本書紀』によれば、687年と690年に武蔵国に新羅人が移住。716年には高麗郡が設置され、相模(神奈川)、駿河(静岡)、甲斐(山梨)、上総・下総(千葉、茨城西部)、常陸(茨城)、下野(栃木)の7カ国にいた1799人の高句麗(高麗)人が移住しました。高麗郡は現在の埼玉県日高市、鶴ヶ島市、川越市、狭山市、飯能市などの郡域。武蔵国にはまた、狛江(現在の東京都狛江市)など高麗人が居住したとされる地名が残ります。
朝鮮半島北部の高句麗は668年に滅亡しますが、滅亡前に使節として倭国に来て、703年に「高麗王」の姓を与えられた若光がいました。若光は高麗郡の長官に任命され、この地で没します。高麗川の流れる日高市の高麗神社に祀られ、近くには菩提寺の高麗山聖天院もあります。
武蔵国にはその後も移住が続きます。
733年に埼玉郡の新羅人53人が「金」の姓になり、758年には新羅人74人により新羅郡が設置されました。現在の埼玉県和光市、朝霞市、新座市、志木市、戸田市、東京都練馬区の一部、西東京市などこれも広大な郡域で、「新座郡」とも称しました。この地域にはかつて新倉村、白子村など新羅の文字が変化した地名が複数あり、志木市の「志木」も新羅でしょう。
百済人も入植
今でこそ首都圏として栄える関東地方ですが、当時は未開の荒野が広がっていました。いくたびか「移住」という言葉を使ってきましたが、その実態は茫漠たる未開地の極めて困難な開拓です。関東のほぼ全域は、出雲や朝鮮半島からの移住者による血と汗にじむ開拓の地だったのです。
高麗、新羅だけではありません。660年の百済滅亡後8年ほどの間に、記録に残るだけで3100人余の百済人が近江国(滋賀県)や東国(関東など10カ国)に入植しました。古代の列島は朝鮮半島からの移住者で溢れ返っていたのです。(つづく)
※1 鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫)に詳しい
※2 高橋克彦著『東北・蝦夷の魂』(現代書館)などに詳しい
※3 小泉保著『縄文語の発見』(青土社)に詳しい
いつでも元気 2022.10 No.371
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