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いつでも元気

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神々のルーツ 
素戔嗚と牛頭天王

文・写真 片岡伸行(記者)

祇園祭が開かれる夏の八坂神社(京都市東山区祇園町)

祇園祭が開かれる夏の八坂神社(京都市東山区祇園町)

 神社の歴史から日本の成り立ちを探るシリーズ。
 今回は「祇園さん」と呼ばれる京都の八坂神社。
 祇園とは仏教僧院のことで神道ではありません。
 しかも、八坂神社が祀るのは日本神話の素戔嗚。
 複雑に織り成された祇園さんの歴史を探ります。

 夏の京都は日本三大祭りの一つ「祇園祭」で賑わいます。祭りを開く八坂神社(京都市東山区)は「京の東の守り神」とされる古社で、全国にある約2300の系列神社の総本社。皆さんのお近くで八坂神社の名前を耳にしたことがあるでしょうか。京都の八坂神社は、朝鮮半島北部にあった国・高句麗と深い縁のある神社です。

高麗人が祀った祇園社

 八坂神社は元々、「祇園社」(感神院)という名の神仏習合の地でした。2月号で紹介した明治維新時の神仏分離令(1868年)によって八坂神社に改称し、名称のみならず祭神も変更させられました。
 祇園社ではそれまで牛の頭と書く牛頭天王を祀っていましたが、「日本神話に出てくる神を祀れ」と言われ、祭神を素戔嗚に変更したのです。
 牛頭天王とは釈迦が説法をしたという古代インドの僧院・祇園精舎の守護神で、これが祇園社の由来です。一方、素戔嗚は日本神話で天照の弟とされ、八岐大蛇を退治したエピソードなどで知られる神話上の皇室の先祖です。素戔嗚と牛頭天王、どんな関係があるのでしょう。
 八坂神社が1870年に出版した『八阪社舊記集?』に、祇園社の起源が次のように記されています。
〈斉明天皇の即位2年(656年)8月、韓国の使い伊利之使主が来朝したときに、新羅国の牛頭山に座す素戔嗚の御魂を八坂郷に祭ると伝えられる〉
 これは『日本書紀』にある〈高麗から大使・達沙、副使・伊利之ら総勢81人が訪れた〉との記述と符合します。7世紀半ば、高麗(高句麗)の使節訪問の際、素戔嗚を新羅の国の牛頭山から八坂郷に遷し祀ったというのです。

新羅から来た素戔嗚

 素戔嗚については『日本書紀』第1巻に次の旨の記述があります。
〈素戔嗚は、その子・五十猛と新羅の国の曽尸茂利というところにいた。ここにいたくないと言って船に乗り、出雲国の簸の川の上流にある鳥上の山に着いた〉
 曽尸茂利とは古代朝鮮語のソホル(ソウル)で、都の意。素戔嗚は新羅の都から、出雲国(現在の島根県東部)に渡って来たというのです。「簸の川」は島根県東部と鳥取県西部を流れる斐伊川のこと。「鳥上の山」は鳥取県日南町と島根県奥出雲町との境にある船通山のことで、出雲地方では古来この山を鳥上山と呼んでいました。

皇室に受け継がれた高麗楽曲

 では、素戔嗚がいたという「新羅国の牛頭山」とはどこなのでしょう。
 韓国には牛頭山がいくつもあります。新羅の首都があった南部(現在の韓国慶尚南道居昌郡)にもありますが、かつて高句麗に属し新羅に征服された地(江原道春川市)に牛頭山があり、ここが曽尸茂利の比定地です。
 日本が朝鮮を支配していた1919年(大正8年)、この地に明治天皇と素戔嗚を祀る江原神社が建てられました(戦後、廃社)。当時の日本政府も素戔嗚と関係の深い地だと認めていたのです。
 皇室伝統の雅楽に、高句麗から伝わった高麗楽曲「蘇志摩利」があり、やはり素戔嗚と新羅の地を題材にしたものです。
 高麗の使節・伊利之が訪れた12年後(668年)、高句麗は唐と新羅に攻められ滅亡し半島の歴史から姿を消しますが、その文化の精髄は祇園社だけでなく列島の皇室に受け継がれたのです。(つづく)

比定地 他の類似の場所と比較したうえで推定された地のこと

いつでも元気 2022.9 No.370