神々のルーツ
“世界システム”への対応
文・写真 片岡伸行(記者)
第4回 園城寺、新羅善神堂、飛鳥寺
神社の歴史から日本の成り立ちを探るシリーズ。
前号では森や山自体を「ご神体」とし、本殿のない「原始神道」の誕生を紹介しました。
今回はそこから現在のような社殿をもつ、神社神道、皇室神道への道筋をみていきます。
琵琶湖に臨む滋賀県大津市。古代の首都・大津京があったこの地に、皇位継承をめぐる天皇家内の争い「壬申の乱」(672年)で敗れ、自害した大友皇子の霊を祀る園城寺(別名・三井寺)があります。
新羅系とされる氏族・大友村主の氏寺として7世紀に創建。守護神の一つが新羅明神で、国宝の新羅明神坐像を安置する新羅善神堂が、同寺北側の「新羅の森」と呼ばれる山間にひっそりと建っていました。
古代最大の内乱と言われる壬申の乱で大友皇子を自死に追いやったのは、叔父に当たる大海人皇子、のちの天武天皇です。この天武が、それまでの山や森自体をご神体とする原始神道から現在の神社神道への道筋をつけ、「古代の国家神道」ともいえる神社の国家管理を進めたとされます。
では、現在の神社のような“ハコモノ”はいつごろから建てられたのでしょう。
「日本」と「天皇」の誕生
6世紀から7世紀にかけて、アジアは動乱の時代でした(年表)。戦火や抗争で犠牲になった多くの命の鎮魂のため、祈りの場が必要とされたのでしょう。
6世紀の半ば、朝鮮半島の百済から当時倭国と呼ばれていた日本に仏教が伝えられます。日本最古の本格的な寺院は奈良県高市郡明日香村にある飛鳥寺です。百済系とされる蘇我馬子が、百済の寺大工らを招いて6世紀末に建立を開始。本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)の製作者は同じく百済系の仏師・止利(鳥)で、造立に際して朝鮮半島北部にあった高句麗の王から黄金が贈られるなど、半島の先進技術を結集する形で7世紀初めに完成しました。
一方、中国大陸では581年に隋ができ、隋が滅ぶと618年に唐が成立。倭国は600年から遣隋使、630年からは遣唐使を派遣します。今で言う留学生のように先端技術や文化を学ぶため、倭人たちが船で次々と大陸へと渡って行きました。
こうした情勢変化を受け、倭国は〝世界システム〟への対応を迫られました。初めて元号が定められた645年の「大化の改新」に始まり、681年には天武天皇が唐の律令制度を参考に律令の制定を命じ、701年の「大宝律令」制定で国家統治の基本的な法体系が整います。
律は今の刑法、令は行政法などに相当します。これにより「日本」という国号が初めて定められ、それまで大王と呼ばれていた王権のトップに「天皇」の称号が付けられました。最初の天皇は天武ないし次の持統とされます。
律令国家の進展とともに
天武が律令制定を命じた681年、『日本書紀』に〈畿内および諸国に詔して、諸の神社の社殿の修理をさせた〉と記されます。修理とは造営のことです。また、祈年祭など宮中祭祀が始まったのもこの頃とされ、律令国家の進展とともにその権勢をあまねく示すため、皇室神道と神社神道の形が整えられていくのです。
社殿は仏教寺院を模して造られました。大陸や半島からの来訪者に、「神社」という独自の建物を見せたかったのでしょう。ご神体が山や森では見栄えがしない、最新技術によるハコモノを作ろうというわけです。そんな傾向は現代も同じ。科学や技術が発達しても、人間の心性は1000年以上前と大して変わっていないようです。
9世紀には有力神社50社で天皇即位の際の儀式が始まり、10世紀の927年には律令の施行細則をまとめた『延喜式』全50巻が完成。その9巻と10巻の「神名帳」には全国2861の神社名が記されています。
そのうち、ヤマト王権と天皇家が重視した7神社を「上七社」と呼びます。この上七社を中心に各神社の起源に迫ってみましょう。(つづく)
いつでも元気 2022.4 No.365
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