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いつでも元気

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神々のルーツ 
原始神道の誕生

文・写真 片岡伸行(記者)

第3回 三輪山、大神神社

 神社の歴史から日本の成り立ちを探るシリーズ。
 今回は神社の始まり「原始神道」を紹介します。
 「八百万の神」というように、太陽や空や森、その全てに神や霊魂が宿る自然崇拝の時代。
 そこから萌芽したのが「原始神道」です。

 誰でも自国を中心に物事を見たり考えたりしたくなるものです。しかし、私たちが子どもの頃から見慣れた地図を逆さにすれば、日本列島は中国大陸と朝鮮半島に張り付いた小さな島にすぎません(地図)。古来、大陸の果ての島々に、半島などを経由して人とモノが流入してきたのです。

紀元前の列島に来た人たち

 日本列島の稲作は縄文時代末期、もしくは弥生時代に北九州地方で始まりました。佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは、紀元前930年頃の日本最古の稲作遺跡が発掘されています。倭族※1のいた中国南部原産の短いイネは、朝鮮半島中南部(のちの伽耶もしくは加羅)あたりから、海を渡って九州地方にもたらされたとの説があります。遺跡の見つかった唐津市の「唐津」はもともと「加羅津」であり、「加羅に向かう港」という意味です。※2
 日本最古とされる青銅器は福岡県福津市の今川遺跡から出土。同じく最古の鉄器は同県糸島市の曲り田遺跡から発掘されました。いずれも弥生時代前期までに半島経由で流入した農具や武器です。
 このように文明社会の基盤となる稲も青銅も鉄も、中国大陸を源流に朝鮮半島を経由して船で北九州地方などにもたらされました。弥生時代とは1884年(明治17年)に現在の東京都文京区弥生で発掘された土器にちなむ呼称ですが、その中心は九州北部でした。当然ながら、モノや技術だけが勝手に入って来るわけでなく人も移り住みます。これが原始神道誕生前夜の列島の姿です。

森や山をご神体に

 古代は神を「かむ(かん)」と発音し、アイヌ語の「カムイ」もまた神という意味です。その「かむ(かん)」に朝鮮・韓国語で国を意味する「ナラ」をつけると「かんなら」「かむながら」。かむながらとは奈良時代まで使われていた古語で、「神の心のままに」という意味です。このように当時倭国と呼ばれていた日本、朝鮮半島、アイヌ民族の言葉は重なり合っていました。
 日本最古の歴史書とされる『日本書紀』に、朝鮮半島にあった国・百済から王仁という博士を招いて文字を学ぶ話が出てきます。5世紀初め頃の伝承ですが、日本で漢字が使われ始めたのはこの頃とされます。当時の倭国では百済語が通じたからこそ、漢字を学ぶことができたのでしょう。
 先進技術を持って列島で暮らし始めた人たちは、故郷の山河や祖先を思い偲んだことでしょう。先祖を祀り、亡くなった人を埋葬する、いわゆる原始神道はこうして始まったと思われます。
 鎮守の森というように、当初は森や山自体がご神体でした。これを「神奈備」と言います。日本最古の神社とされ、ヤマト王権成立前からの歴史をもつ大神神社(奈良県桜井市)は本殿を設けず、三輪山自体がご神体でした。大神神社ではそれを〈神社の社殿が成立する以前の原初の神祀りの様〉と、その由緒に記しています。

御嶽や堂との類似性

 沖縄県には「御嶽」と呼ばれる聖地があり、そこもまた森の一角が祈りの場になっています。朝鮮半島の先にある済州島には「堂」と呼ばれる聖地があり、やはり大木や森を祈りの場とします。また、朝鮮半島には中国から伝わった「城隍神」という地域の守り神を祀る場もありました。
 列島の原始神道はそれらのバージョンの一つに見えます。「共通の要因もあるが、異なる要因もあって結論は出ない」とする専門家もいますが、次の似通っている風習をどう捉えたらよいでしょう。
 済州島の堂は周辺の木々に布を巻き付けて垂らし、城隍神も樹木などに白紙や縄を張り巡らせます。日本の神社や祭りも、白半紙を折った紙垂やしめ縄を張って結界を設けます。これは単なる偶然でしょうか。(つづく)

※1 倭族 現在の中国江南地方で水稲栽培に成功し、東南アジアの広域に移住した人々。倭族の中で朝鮮半島を経て縄文晩期に日本に渡ってきたのが弥生人とされる。鳥越憲三郎著『古代中国と倭族-黄河・長江文明を検証する』(中公新書)などに詳しい
※2 上垣外憲一著『倭人と韓人 記紀からよむ古代交流史』(講談社学術文庫)に詳しい。

いつでも元気 2022.3 No.364