あの日から10年
福島第一原発から北西へ約4km、原発と同じ双葉町内の「まどか保育園」には10年前、125人の園児が通っていた。
東日本大震災で震度6強の地震が襲い、隣接する正福寺の鐘楼が崩れ墓石も散乱。保育士たちは園児に防寒着を着せ、布団を頭に掛けるなど身を守りながら園庭に避難した。
地震から3分後、町内に津波警報が鳴り響いた。年長組に年少組の園児の手を引かせ、避難先の双葉北小学校に着いたのは午後4時ごろ。地震発生の午後2時46分から1時間あまりが経っていた。
海岸から直線距離で2・5kmの保育園に津波は届かなかった。園児は全員けがもなく、その日のうちに保護者に引き取られた。
あの日から10年。慌ただしく避難した当時の様子がそのまま残る保育園(閉園中)に、当時副園長だった柗本洋子さんの案内で入った。
お別れ会とお誕生会
双葉町は今もほぼ全域が帰還困難区域に指定されている。保育園の運営母体である正福寺は須賀川市で再建。寺の住職の妻でもある柗本さんは、副住職の次男の閉眼供養の法事に同行して、久しぶりに故郷を訪れた。
寺の脇道を通る時、柗本さんはふと上を見上げた。「あのピンクの花、サルスベリなんですけど懐かしいです。この木を見ると、10年前の気持ちがよみがえる。この小道を園児たちが手をつないで逃げていった…。車道は地割れして通れなかったから」。
園児の背丈くらいの小さなゲートを開き、伸び放題の雑草をわけて園舎に入ると、そこは時間が止まったような空間だった。
「東日本大震災の起きた3月11日は、お別れ会とお誕生会を一緒に開いた日。マジックショーもあって子どもたちがにぎやかで。ちょうど翌日に田村市で開催予定だった『NHKのど自慢』に出演する保母さんが2人いて、保育室で壮行会もやった。その時に食べたお寿司が…」。
職員室のホワイトボードの11日(金)の欄には「お別れ会・お誕生会」のスケジュール。右隣の12日に「のど自慢予選」、13日には「のど自慢本選」と書いた文字がいまだに残っていた。
震災前日の10日の欄には「避難訓練」の文字も。そして職員の机の上には、サランラップを掛けた皿が3枚。そこには寿司が載っていた形跡があった。
無造作に積まれたバッグ
保育室には、たくさんの通園バッグが無造作に積まれていた。「持ち主に返そうと思った時もあったんですけど」と柗本さん。原発事故の直後に避難指示。その後は帰還困難区域に指定された双葉町では、放射能汚染を恐れ町内から“物”を持ち出すことができなかった。現在では「特定廃棄物」扱いだ。
「今は双葉町産業交流センターで浪江焼きそばやハンバーガー屋さんが営業しているの。一時帰宅をした最初の頃は『ここでは水も飲んじゃダメ』と言われていたのに、今では食べてもいいのかって。そう思うと、なんだかねえ…」と、複雑な表情を見せた。
原発事故の“物証”のような保育園も年内には解体される。柗本さんは「この辺りをきれいにして、『帰れ』なんて政府は言うんでしょうね。酷いです。もう、何事もなかったかのようにしたいわけですから。『大丈夫。もう原子力OK』って。原発事故の“怖さ”は、この保育園のようになることなんです」と訴える。
あの日、子どもたちが、保育士が、町民が味わった“怖さ”を。10年後も人が戻らない町になってしまった“怖さ”を記録として残し、次世代に伝えなければと思う。(終わり)
いつでも元気 2021.12 No.361