あの日から10年
第11回 “棄民”への異議申し立て
「心の中で葛藤してきて、今日やっと第1回の口頭弁論でした」―。原発事故後、10年にわたる苦悩の一端を切々と訴えた菅野哲さん(73歳)。菅野さんを代表とする飯舘村12世帯、29人の原告による「謝れ!償え!かえせふるさと飯舘村」訴訟の第1回口頭弁論が8月4日、東京地裁であった。
提訴したのは今年3月と、福島第一原発事故を巡る裁判では最近のこと。他の裁判が長期化している現実もあり、「元気なうちに納得のいく判決を引き出せるのか」と、菅野さんは不安な思いを口にした。
それでも飯舘村民がこの時期にあえて新たな法廷闘争を始めたのは、被災者がものを言えないような状況に追い込まれていることへの「納得いかなさ」が強いからだ。
「事故を起こした東京電力は、国のカネを使いながら優遇されて生き残っている。一方で被災者には自死した人がたくさんいる。いったい何なんだろうなって思います。日本政府の目は国民に向いていない。しかし、負けてはいられません」と菅野さん。
飯舘村民が起こした裁判は損害賠償請求訴訟のため、「村民が初期被ばくをさせられたこと」、「村での暮らしを壊されたふるさと喪失」の慰謝料請求の形をとっている。しかし、彼らが求めているのは、言葉では謝罪を口にしながら一貫して認めていない「国と東電の責任を認めさせること」だ。
飯舘村は福島第一原発から30kmと距離的には離れている。しかし、村に放射能雲が流れ込んだ時期に雨と雪が降ったため、高濃度に汚染された。そのうえ、まるで「住民を避難させない」(原告)かのような行政の対応で避難は遅れに遅れた。
安心して暮らせる?
10年前、村が「自主避難」用のバスを用意し、村民のまとまった避難が始まったのは3月11日の原発事故から1週間以上経った19日。既に村は15日段階で事故前の900~1100倍もの放射能に汚染されたことを村役場は知っていた。ところが25日、福島県と村の災害対策本部が共催し、「安心して村で暮らせる」とのメッセージを発する講演会を、残っていた村民約600人を集めて開いたのだ。
講演したのは「福島県放射線健康リスク管理アドバイザー」で、長崎大学大学院の高村昇教授(現在は東日本大震災・原子力災害伝承館館長を兼務)。 高村教授は「外ではマスクを着用し、外出後は手を洗うなど基本的な事項さえ守れば、医学的に見て村内で生活することに支障がない」と強調。「これからも安心して村で生活していけるのか」との質問には「医学的には、注意事項を守れば健康に害なく村で生活していけます」と答えたという(村の広報誌から)。
その結果、国から全村避難の指示が出るまでの2週間、村民は高濃度汚染地帯に留め置かれ、さらに一度は避難した村民の中から村に戻る者が続出した。
講演会場にいた菅野さんは今でも悔しそうに振り返る。「村役場の周囲は毎時22・7マイクロシーベルト(事故前の約450~550倍)だかあったんだからね。しかも県の担当次長も村長もいて『よかった、よかった。もう安心だ』って村民に言うわけ。それを聞いた私は『何をふざけたこと言ってるんだ。じゃあ、ホームページで公開しなさい』って役場の職員に言ったら、『忙しくてできません』って」。
県と村が一体となった安全キャンペーンで多くの村民が大量に被ばくさせられた。10年にわたって村の放射能汚染を調査している今中哲二さん(元京都大学原子炉実験所助教)のグループは、放射線の実測値と村民の約3割に当たる1812人の行動記録の調査から外部被ばく量を推計した。
その結果、村民の被ばくの平均値は7ミリシーベルト。これは福島県の県民健康調査による県民平均値0・8ミリシーベルトの約9倍にもなる。
菅野さんは第1回口頭弁論で「このままいくと私たちは棄民にされるのではと危惧している」と陳述した。原発事故被災者を“棄民”にする国や行政への正面からの異議申し立てである。
いつでも元気 2021.11 No.360