あの日から10年
文・写真 豊田直巳(フォトジャーナリスト)
第9回 牛飼いとして生きる
「売れない牛、誰のか分からない牛を飼い続けて10年。金にならない牛飼いに、馬鹿らしさはあるわけだよ。ふと、自分のやっていることがまともじゃないなと思える時も。『いらない牧草ロールをください』って、まともな畜産農家に頭を下げるわけだ。すごく惨めになることもある。それでも10年間、自分なりの考えを持ってやってきたんだと言い聞かせる。無意味なことは長いことできないからね」。
福島県浪江町で「希望の牧場・ふくしま」を運営する吉沢正巳さん(67歳)。2011年3月の原発事故直後から、取り残された牛の保護や飼育を続けている。福島第一原発から20km圏内の警戒区域(当時)にあったため、国からは再三殺処分を求められたが、拒み続けて世話をしている。
牛は被ばくしているため、出荷することができない。飼育費用は一般社団法人(非営利)を立ち上げ、寄付や餌の提供、賠償金を取り崩しながらまかなっている。
吉沢さんは軽自動車にスピーカーを載せた“街宣車”で地域を回り、感じたこと考えたことをマイクで訴える。
「みんなが通った浪江小学校の解体が進んでいます。浪江町の小、中学生はもう帰って来ません。避難解除から5年が経って、5000棟が解体され更地の状態です。人は住まない、戻らない浪江に、町としての存続の意味が崩れていくかもしれません。“サヨナラ浪江町”の現実の中で、オリンピックに協力しようという雰囲気にはとてもなれません。私たちは復興五輪などと喜ぶことはできません」。
街宣車には「カウ・ゴジラ」と書かれたステッカーを貼り、後ろのけん引車両には等身大の牛のオブジェを搭載。「カウ・ゴジラ」とは、牛(COW)とアメリカの核実験で“誕生”したという設定のゴジラを組み合わせた造語。映画のテーマと同じく、被ばくした牛が日本人に「今度こそ、生き方を考えろよ」と吠えるイメージだ。
つながった3つの“国策”
東京電力・福島復興本社の入る双葉町産業交流センターに街宣車を進めた吉沢さんは、マイクの音量を上げた。
「東京電力は汚染水を福島の海に流すな。福島の漁業は壊滅的な被害に遭う。10年前の泥沼状態が汚染水の放出でまた始まるんだ。汚染水は原発敷地内のタンクに溜めておけ。浪江町の請戸漁港を滅茶苦茶にするな」。
ひとしきり避難地域に指定された町を回ると、今度は東京へ向かった。都庁前で行われる五輪反対デモに連帯するためだ。こうした都内での街宣活動は既に150回を超えた。その車中でふと、両親のことを話し始めた。
吉沢さんの両親は戦前、満蒙開拓団の一員として新潟県から中国へ渡った。日本の敗戦で母は帰国できたが、旧ソ連軍につかまった父はシベリアに3年間抑留された。
「満州国は日本の国策の根幹。それがさ、負けた途端に関東軍とか満鉄関係者は先に逃げて帰るわけよ。ソ連軍が侵攻するさなか、沖縄戦で起きた集団自決のようなことが、満州でもそこらじゅうで起きた。日本は国民を見捨てたんだよ。棄民したんだよ」。
戦争という誤った国策と過酷事故に至る原発推進の国策。そして今また「国民の命より大事」と言わんばかりに、新型コロナ対策よりオリンピックを優先する国策が、吉沢さんの中では一本の線でつながっている。
「希望の牧場には232頭の牛がいる。原発の時代を終わりにするためにも、この被ばく牛を生かしたい。未来のために残りの人生、生きていく。俺は散々、国に対して物言いをしてきたから、折れてなんかいられない。牛も生きるし、俺も生きる」。
その思いが毎日、早朝から牧場で牛に餌をやり、牛舎の掃除を続けさせてきた。餌の牧草ロールの確保に宮城や長野にまでトラックを走らせることも少なくない。少なくとも「あと10年」との決意を新たに。
いつでも元気 2021.9 No.358