あの日から10年
文・写真 豊田直巳(フォトジャーナリスト)
第8回 帰っては来たけれど
2017年3月、大半の地区で避難指示が解除された飯舘村。村の北外れの佐須集落に菅野榮子さん(85歳)が帰って来たのは、その1年後のこと。車で1時間近く離れた伊達市の仮設住宅で避難生活を送っていた時、榮子さんはこう話していた。「帰れない場所に『帰りたい』っていう気持ち、分かりますか」 。
原発事故でふるさとを追われた人々は、避難指示が解除される前、一様に「帰りたい」と口にした。自治体のアンケート調査でも、6?7割が「帰りたい」に◯を付けた。そして国は、その「帰りたい」を根拠に避難指示区域で除染を進めた。
しかし、除染の効果は放射線量を半減させる程度で、事故前の環境には戻せないことが分かっていた。避難先で生活を築き始めた若者や子育て世代は、たとえ家の周囲や田畑が除染され、放射線量がある程度は下がったとしても、帰ってこないことをみんなが知っていた。「帰りたい」は「帰る」を意味しなかったのだ。
避難前には三世代、四世代が一つ屋根の下に暮らした大家族はバラバラになり、助け合うことで成り立っていた地域の人々も離ればなれに。放射能に汚染された大地だけでなく、地域社会も元には戻らない。ふるさとは「帰れない場所」になってしまったのだ。
榮子さんは「孫も帰って来られない所に、それでも『帰りたい』って言うしかないのが、ばあちゃんたちだべ」と言って村に帰って来た。
原発事故は「起承転、転、転」
帰村から2年半が過ぎた昨年12月。集落に新築した小さな家に一人で暮らす榮子さんを訪ねると、昼食を準備して待ってくれていた。
食卓には自家製の野菜で作った手料理が並ぶ。「今年はトマトの苗を4本も5本も植えて、いっぱい花咲いて、実がなったんだけど一つも食べれん。サルが来て取ってく。ナスもキュウリもそうだ。サルやイノシシとの戦いだ。ははは」と声をあげて笑う。
除染した畑に汚染されていない土をダンプで運び入れ、土壌改良剤と有機肥料を買って土作りをしたから、自然の味がするのだという。
「気がつくと何か食べている。ははは。食べることだけが生き甲斐で。看護師をしている娘に言われたよ。『お母さん、毎日、体重計に乗ることが大事だ』って。でも、20歳の時と体重は変わんないんだよ。若い時の服は今でも着れる」と、また声をあげて笑った。
普段は一人きりの食事。「村に帰っては来たけれど、言葉には表せないものがある。昔から大家族で、子どもの頃から爺ちゃんや婆ちゃんがいるのが当たり前の生活だったのに、それがぽつんと一人になった」とふと漏らす。
「原発事故前は三世代の同居。その時は『ああ、一人になりたいなあ』って思ったこと何回もあっけど。一人になってみて、大家族の中で生きることがどんなにありがたいことか、しみじみと分かった」。
放射能汚染に対する憤り、自然や家族と暮らす豊かさや幸せを奪われた悔しさを語る榮子さんは饒舌だ。しかし一人で暮らす日々の寂しさに、戸惑いと不安が表情ににじむ。
「原発事故から10年、無我夢中で生きてきた。コミュニティーが崩れたし、人の心も変わってしまった。『お金さえあれば生きられる』と思っている人が多い」と振り返りつつ、まるで私たちの生き方を問うように語る。
「文章の作りは『起承転結』で収まっけど、この原発事故は『起承転、転、転』だ。未来に残す教訓がいっぱいある。子々孫々に残す課題がいっぱいある。そういうものを日本の人たち、そして世界の人たちが、どういう判断をして生きてくれるかだよ」。
「こんな山村で暮らしてきたけれど、本は読めるように、親にしてもらったから」と話す榮子さん。その姿はまるで里山の哲学者のようだ。
いつでも元気 2021.8 No.357