あの日から10年
文・写真 豊田直巳(フォトジャーナリスト)
第7回 時間が止まった証
浪江町西部の津島地区。全域が「帰還困難区域」に指定され、福島第一原発の事故から10年を経た今も誰も住めない。だが1956年に浪江町と合併するまでは津島村だったこともあり、住民の結束は強い。国と東京電力を訴えた「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」※には、住民の半数にあたる231世帯682人が原告に名を連ねた。
裁判の原告の一人、三瓶春江さんは迷いに迷った末、政府が進める「特定復興再生拠点区域」※の制度を使って自宅の解体を決意した。昨年10月に津島の自宅で取材した際、環境省の委託で打ち合わせに来た解体業者に、三瓶さんは涙ながらに訴えた。
「ただの物じゃないんです。夫の両親が苦労して建てた家。私たち家族の暮らしの全てが、思い出と一緒に詰まっているんです。それを分かってほしいの。あなたたちに責任がないことは分かっています。でも、それを知っていてほしいの」。その言葉に、作業着にヘルメットをかぶった解体業者も涙ながらにうなずいた。
同拠点区域に指定されたのは津島地区全体の1・6%に過ぎない。建物解体と雑草や雑木の除去で、たとえ見た目にはきれいになったとしても、この地で生活を再開できないことは住民の誰もが分かっている。
既に浪江町に戻ることをあきらめ、福島市に中古住宅を購入した三瓶さん。義父母の苦労の証でもある自宅を、「自分たちの代で解体してしまっていいのか」と自責の念に似た思いが繰り返しわく。それでも一時帰宅のたびに、朽ち果てていく我が家を見るのは忍び難い。
長靴を履いたまま自宅に上がらせてもらった私に、三瓶さんは「畳の上は危ないから歩かないで。床が抜けているかもしれない。台所の食器入れや義母の部屋のタンスは、地震で倒れたんじゃないんです。床が腐って傾いたから倒れたんです」と悔しそうな表情を見せた。
人が住んでいない家は次第に壊れていく。野生動物のすみかになってしまった家もある。津島地区のそこかしこで倒壊しそうな家屋を目にした。
孫の身長を刻んだ柱
それから半年。いよいよ解体の日が迫る今年4月、もう一度、津島の自宅に案内してもらった。立派な造りの玄関を開けると、目の前に柱がある。三瓶さんはその柱を指さしながら「解体後に、この柱だけは福島市の家に持っていきたいと思っているの」と語る。
「原発事故が起きるまで、ここで9人の大家族で暮らしていた。夫の両親と私たち夫婦、それに長男夫婦と次女、2人の孫もいて、それは楽しかったわよ。津島はみんな知り合いで、何の気兼ねもなくお互いに助け合って暮らしていた。地元の石を使い石材彫刻の仕事をしていた夫の仕事場もすぐそこで、孫と歩いてお弁当を届けていたし。孫たちの身長を毎年、誕生日に刻んだのがこの柱なの」。柱の傷跡にふれながら、懐かしそうに振り返る。
柱には童謡「背くらべ」の歌のように、孫たち兄弟の背たけを刻んだ傷が、1mほどの高さで止まっていた。10年前の原発事故でふるさとを追われ、津島での時間が止まってしまった証のように。
もう、ふるさとには戻れない。それでも奪われた時間を取り戻そうと、津島の人々が闘ってきた津島原発訴訟の判決が7月30日に下る。
お金では買えない“ふるさと”。しかし損害賠償という形でしか、国や東京電力の責任をただせない。「ふるさとを返せ、失われた時間を返せ」と訴える住民に裁判所はどう応えるのか。その責任は重い。
※ふるさとを返せ 津島原発訴訟
浪江町津島地区の住民が2015年9月に提訴。国と東京電力に町の原状回復と、ふるさとを奪われた精神的慰謝料などを求めている
※特定復興再生拠点区域
帰還困難区域内で避難指示を解除し“居住を可能”とすることを目指す区域。国費で建物の解体と除染が行われる
いつでも元気 2021.7 No.356