あの日から10年
文・写真 豊田直巳(フォトジャーナリスト)
第6回 “悔恨”を勇気に
福島第一原発事故から10年の3月11日、福島県楢葉町の宝鏡寺で「原発悔恨・伝言の碑」の除幕式があった。伝言の碑の隣には「広島・長崎の火」※を受け継ぐ「非核の火」がともった。
碑文を書いたのは宝鏡寺第30代住職の早川篤雄さん(81歳)と、ともに原発反対運動をしてきた立命館大学名誉教授の安斎育郎さん。碑文には「電力企業と国家の傲岸に/立ち向かって40年力及ばず/原発は本性を剥き出し/ふるさとの過去・現在・未来を奪った」とある。碑文に込めた思いを「悔恨です」と言う早川さん。なぜか。
「寺から600mくらいの場所から旧石器時代の石器が出てきた。縄文や弥生時代の遺跡もある。この辺りは2~3万年前から、人々が暮らしてきたということ。そうした故郷の歴史、過去を原発が奪った」。
今も多くの人々が故郷を追われ避難先で暮らす。「政府は『復興』を叫ぶが、文字通りの復興はあり得ない。壊れた原発を密閉するとか、核燃料を持ち出すとかと言っているがデタラメ。放射線量が減るまで数万年単位で管理しなければならない場所で、安心して暮らせるわけがない。原発は故郷の未来まで奪った」と言う。
しかし、それがなぜ“怒り”ではなく“悔恨”なのか。
40年の原発反対運動
宝鏡寺から約16kmの福島第一原発が運転を開始した1971年、楢葉町で第二原発建設の動きが始まる。早川さんたちは「公害から楢葉町を守る町民の会」を結成、原発反対運動を始めた。しかし建設を止めることはできず、82年に第二原発も稼働。それでも86年に「原発問題住民運動全国連絡センター」を立ち上げ、原発の安全対策を東京電力や国に要求し続けてきた。
早川さんが運動を始めて40年、その努力は実を結ぶことなく警告は現実のものとなった。原発事故が起きた時は「なんもかんもが全部、ご破算。全て徒労に終わった」と強い脱力感に見舞われた。原発を止めることができなかった後悔、やるせない思い。それでも闘いは終わらなかった。
2012年12月に、避難先で「福島原発避難者損害賠償請求訴訟」を提訴、早川さんは原告団団長として避難者を励ましてきた。15年4月には寺に戻り、避難中に亡くなって埋葬できないままだった遺骨を預かった。訴訟はいまも続き、昨年3月には仙台高裁で原告側勝訴の判決が出た。
こうした努力を重ねてきたからこそ“悔恨”を口にすることが許されるのかもしれない。
後日、寺を訪ね碑を見入る若者たちに、早川さんは「それでも未来を信じる」とつぶやいた。碑文はこう続く。「人々に伝えたい/感性を研ぎ澄まし/知恵をふりしぼり/力を結び合わせて/不条理に立ち向かう勇気を!/科学と命への限りない愛の力で!」。
※広島・長崎の火 原爆投下直後の広島で採取した火。のちに長崎の原爆瓦から採った火と合わされる。
1990年から上野東照宮(東京)でともされてきたが、 管理が難しくなり宝鏡寺が引き継いだ
『福島に生きる凛ちゃんの10年』
豊田直巳さんの著書。「それでもふるさと」シリーズとして、他に『「明るい未来」を子どもたちに』『土に生かされた暮らしをつなぐ』の3冊が2月に同時発売。いずれも2000円+税。農文協出版
いつでも元気 2021.6 No.355