あの日から10年
第5回 モニタリング爺さん
文・写真 豊田直巳(フォトジャーナリスト)
原発事故の1年半前、2009年10月に飯舘村にやって来た伊藤延由さん(77歳)。東京のIT企業が開設した農業研修所の管理人として赴任した。
「田舎暮らしが夢だったから、村で自分が思うような米作りができるというだけで幸せでしたよ」と、今もほほ笑みながら振り返る。
「管理人兼農業見習い」と名刺に刷り、近隣住民に指導を仰ぎながら米や野菜作りに汗を流した。10年には2・2ヘクタールの田を耕し、8トンもの米が獲れた。
「後で分かるんだけど、実は村に来る前はうつだったんです。東京の会社を定年退職後、新潟の自宅に戻って無為に過ごすうち、友人に『一度、医者に行った方がいい』と言われました。でも村で暮らすようになったら『お前生まれ変わったんじゃなくて、生き変わったな』って」と伊藤さん。しかし、11年3月の福島第一原発事故で“第二の人生”はわずか1年で断たれた。
私が伊藤さんと初めて言葉を交わしたのは、飯舘村の全村避難が始まった直後の5月。村に謝罪に来た東京電力の社長に、役場庁舎前で抗議文を突きつけたのが伊藤さんだった。
その後も避難先を転々としながら、無人となった村に通った。村内の放射線量や、土壌や植物に入り込んだ放射能を測るために。危険を冒してまで、なぜ測るのか。
ひとつは「原発事故時は冬で広葉樹には葉がないから、葉は汚染されていない」との環境省の主張が嘘だということを証明したかったから。
もう一つは、村民に危険性を警告したかったからだ。飯舘村の菅野典雄村長(当時)は、避難指示の解除前から盛んに村民に帰還を呼びかけていた。
「たとえ避難指示が解除されても、山は土も葉も汚染されている。事故前は当たり前のようにその辺に生えている山菜やキノコを採ってきて食べていたが、それは危ないということをデータで証明したかった」と振り返る。
事故から4年が経った15年、農業研修所の庭から採ってきた柏の葉を測定器にかけると、1kgあたり168ベクレルもの放射能が検出された。
新たな放射能汚染
2017年春、飯舘村の避難指示が解除された。村に戻って4年になるが「若い人たちはあまり村に来るべきではないし、子どもたちは戻ってきちゃいけない」と言う。それでも、自身は戻ってきた。
“モニタリング爺さん”を自称する伊藤さん。「なぜ」と問う私に「現場で何が起きているのか。村外から通うより、村で採集して測ればすぐに結果が出るから」と優等生的に答えた。
「それだけではないでしょう」と突っ込むと「それを言うなら“余暇の善用”。言葉を変えれば“年寄りの暇つぶし”。放射能測定はうってつけのテーマです」と笑う。そして、こう続けた。「まだ元気でいられるのは、やってみたいと思ったことを自由にできて、『ほら、みてご覧』という結果が出るからですよ」。
その“成果”の一つに、原発事故から10年を経て分かった新たな被害がある。木の根が地面から吸い上げたセシウムが幹を通って葉に入り、その葉が地面に落ちて腐り、その中のセシウムをまた木が吸い上げて…というサイクルを繰り返し、10年かけてできた腐葉土。
この腐葉土を使ってジャガイモを栽培すると、セシウムのジャガイモへの移行率が非常に高い値になった。「私の実験では汚染された普通の土からの移行率は0・1%だが、腐葉土で栽培すると4・3%と、なんと43倍にも跳ね上がった」と指摘する。自然環境の中で、実験室では分からなかった放射能汚染が進んでいるのだ。
村の循環型農業を支えてきた里山の腐葉土は、もはや使えない。「放射能汚染の深刻さに目を向けるべき」と伊藤さん。それでも「ノルマがないという意味では楽しい調査です」と、これからも村のモニタリングを続ける。
いつでも元気 2021.5 No.354
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