あの日から10年
第4回 飯舘村のサマショール
文・写真 豊田直巳(フォトジャーナリスト)
「今は餌代も抑え、9割が自分の牧草地で刈った牧草だけ。かわいそうだから栄養価の高い濃厚飼料も少し食べさせるけど、お金がかかるのでいつまで続けられるか分からない。『あと1カ月』と言われれば我慢できます。でも真っ暗で先が見えない」―。
憤りと悔恨と困惑の混ざったような声を絞り出した長谷川健一さん(現67歳)。飯舘村で酪農を営む長谷川さんに出会ったのは、福島第一原発事故後の2011年3月30日だった。
東日本大震災による出荷先の被災と原発事故による放射能汚染で、牛乳の行き場はなくなった。それでも乳房炎という牛の病気を防ぐため、既に20日間も毎日、乳を搾っては捨て、搾っては捨てる作業を繰り返していた。原発から30km以上離れた飯舘村に避難指示は出ていなかった。損害賠償や補償金の話も皆無だった。
しかしその前日、私は放射能汚染調査グループ※による村の全域調査に同行。現実とは思えない高濃度の汚染状況を聞いていた。牛の世話どころか、ここにいるだけで大量被ばくは免れない。長谷川さんに「できれば逃げてほしい」と告げた。
長谷川さんの心配事は目の前の牛だけではなかった。「土壌汚染が酷いと作物を作れなくなるんじゃないか。そうなったら飯舘村は廃村だよ。チェルノブイリ※みたいに、ひとっこ一人住めない村になる。そうはならないようにと願うしかない。神頼みみたいな感じで」と、不安に押しつぶされそうな心情を吐露した。
それでも区長を務める飯舘村前田地区の住民が「県外に避難したい」と相談に来ると、「いいよ、いいよ。早く逃げな。後のことはやっておくから」と、地域リーダーの顔に戻って気丈に振る舞った。
その後も事態は目まぐるしく動いた。4月22日の避難指示で村民は北海道から沖縄まで全国に離散。一方、村には3000頭の牛がいた。その処分が済むまで畜産農家は逃げるに逃げられない。家族の一員でもある乳牛の殺処分は免れたいと、5月には東京の国会議員会館まで足を運んで訴えた。仲間たちの避難を見送り、長谷川さん夫妻が伊達市の仮設住宅に入ったのは8月になってからだった。
「俺が村の青年団」
いま故郷の飯舘村に戻った長谷川さんは、妻の花子さんと父親と同じ家で暮らす。生きる糧だった牛はいないし、牛小屋も解体した。子どもも孫もいない。原発事故前は長男家族や次男を含め8人だった家族は、3人になってしまった。「幼い子もいるから、息子たちには戻るなと言っている」と長谷川さん。
今年1月時点で飯舘村の帰還者は、震災前の2割に過ぎない1254人。原発事故前と同じ状態に戻すという意味での“復興”はあり得ないことを悟った村人は、もう戻らない。
それでも長谷川さんにとって、ここは生まれ育った故郷であり、自ら開発してきた土地。目の前の田畑を荒れ放題にしておくわけにはいかない。
「もう酪農はできないにしても、40ヘクタールもの広大な農地をどうするのか。県に陳情して山を削ったり、営農補助や農地改革を取り入れて開発してきた田畑。家族や仲間と汗を流してきた田畑。原発事故があったからって、山に戻すなんて考えられない。俺らの体の動けるうちはなんとか守っていかなくちゃ」と、早朝から広大なソバ畑にトラクターを走らせる。
「67歳の俺が村の青年団だ」と冗談を言って、自らを鼓舞する長谷川さん。その姿は「サマショール」※と呼ばれる、チェルノブイリ原発事故後に故郷に戻ったウクライナやベラルーシの人々の姿にだぶって見える。
※放射能汚染調査グループ
京都大学原子炉実験所の今中哲二助教(当時)をリーダーとする民間の調査グループ
※チェルノブイリ
ウクライナの首都キエフの北135kmにある都市。1986年にチェルノブイリ原発で起きた史上最悪の放射能漏れ事故で、10万人以上いた住民は避難しゴーストタウンとなった
※サマショール
チェルノブイリ原発事故後、半径30kmの立ち入り禁止区域に自らの意志で帰還した人々
いつでも元気 2021.4 No.353