あの日から10年
文 豊田直巳(フォトジャーナリスト)
第2回 5年9か月ぶりの“再会”
「2016年12月9日に、作業員のおばちゃんがこのマフラーを見つけてくれたんです。手にしたら汚れていたので、土を払おうと思ってパタパタとやったら、マフラーの中から骨のひとかけらが落ちてきたんです」─。
それは次女・汐凪さん(震災時7歳)の遺骨だった。木村紀夫さん(現55歳)が幼い娘と“再会”するまでに5年9カ月を要した。
私が木村さんに初めてお会いしたのは、東日本大震災から4カ月後の11年7月24日。福島県大熊町の熊川公民館前で震災後初の合同慰霊祭が行われた日のこと。そこで、遺族を代表して弔辞を読んだのが木村さんだった。
「家族が津波にのまれ苦しんでいる時、私は職場で仕事を続けていました。誰よりも早くあなたたちのもとへ駆けつけなければならなかった私は、未曾有の地震があったにもかかわらず、あんな津波が来るとは想像できませんでした。本当に申し訳ありません。苦しかったと思います。怖かったと思います。あなた達の人生の最後をこんな結果にしてしまい、謝る言葉が見つかりません。本当にすみません」。
この時、妻の深雪さんと父親の王太朗さんの遺体は見つかったが、汐凪さんは行方不明だった。木村さんはその後、残された長女の舞雪さんの被ばくを避け、長野県白馬村に避難した。
その後も白馬村から大熊町に通い、汐凪さんの捜索を続けた。最初はたった1人で捜索していたが、途中からボランティアが加わった。中間貯蔵施設予定地の現地調査の一環で、作業員や重機も加わった捜索も始まり、汐凪さんのマフラーが発見された。
「事故を忘却することなく」
昨年10月、木村さんの案内で大熊町を巡った。家族の遺品が保管されている遍照寺は、かつて木村さんの自宅があった場所から近いが、山手にあって津波の被害は免れた。震災で傾いた本堂の脇に、檀家会が建てた真新しい石碑があった。
石碑にはこう刻まれていた。
2011年3月/東京電力株式会社福島第一原子力発電所事故により避難を余儀なくされ、当院の檀信徒も全国に避難する/当地に帰還することは困難であろう/後年/この地を訪ねられたら先祖の菩提寺はここ遍照寺にあったことに思いを馳せて欲しい/この事故を忘却することなく
昨年11月、被災地では初めて女川原発(宮城県女川町、石巻市)の再稼働に宮城県の知事が同意した。ほかにも高浜原発など、原発事故から10年を前に再稼働に向けた動きが着々と進む。原発推進派の人々は、この碑文をどのような思いで読むのだろうか。
遍照寺裏の別棟に、汐凪さんのマフラーも置かれていた。「たぶんマフラーをしていたんですね。マフラーが脱げずに、そのままになっていたってことは、そんなすごい津波にのまれていなかったんじゃないか。そう考えるとなおのこと、もしかしたら生きていたんじゃないかなっていう思いが強くなるんですよね」と木村さん。
津波に襲われた日、夜を徹して探しても汐凪さんを見つけられなかった自分。原発事故による避難命令で捜索を続けられなかった自分。そんな自分自身を今でも悔やみ、責めているようにも見える。
しかし、そんな自分だからこそできることがあるとも考えるようになった木村さん。「大熊未来塾~もう一つの福島再生を考える」と名付け、自宅のあった場所や汐凪さんの遺骨の見つかった場所などからインターネットで“あの日”を語り、大熊町の今を映す映像の配信を始めた。「若い人たちに、世の中が変わっていく可能性があるのだとの思いを込めて」─。防災のあり方を、原発の不条理を伝え続ける。
いつでも元気 2021.2 No.351