椎名誠の地球紀行
マイナス59℃の街で
地球で一番寒いのは南極。ぼくの知っている年ではマイナス84℃を記録しているが、それは観測上の数値。人が住んでいるわけではない。
街があって人が生活していて、一番寒いところはシベリアのオイミャコン地区にあるベルホヤンスクというところ。ぼくはそこに一週間ほど閉じ込められていた。緊急着陸した飛行機のエンジンが凍結して飛ばなくなってしまったのだ。
滞在中の最低気温はマイナス59℃だった。北極圏より寒いのだ。海があるところとないところの差がそういうかたちで出る。人々は普通に暮らしていた。
この日はマイナス40℃台。街なかは常に霧とかもやのようなものが出ていて風景はぼんやりしていた。居住霧といって人間の暮らしているところ、煮炊きする湯気、クルマの排気ガス、人間をはじめ生物(犬とか馬とかネズミとか)の吐く息などがみんな瞬間的に空中で凍ってしまい、霧のようになってしまうのだ。
でも街があるからみんなしぶとく暮らしている。学校にも通っている。防寒には強い。ただし気をつけることがいろいろある。
外出する際は必ず手袋を2組持つこと。なにかの拍子で片方なくしてしまい、素手で歩いていてつまずき、ムキダシの鉄にうっかり触ると凍っている鉄に手がくっついてしまうのだ。
現地では「鉄が食いつく」と言っていた。日本のような温暖な気候の地でも、真冬に鉄のドアノブなどに素手で触ると、吸い付けられるような感覚になることがある。あれのもっと強烈なもので、救助が遅れると皮膚を切り取らなければならないという。
楽しくない焚き火
外で冷たい水を飲むのも禁じられている。体調を悪くするし、場合によっては死ぬことがあるという。「嘘だと思ったらやってみろ」と品の悪い森林監視員に言われたが、「本当だと思う」と答えた。さからって水を飲んで死んでしまったら、そいつはどうするつもりだったのだろう。
タイガ(シベリアの針葉樹林)の中で焚き火をしても、ちっとも面白くない。焚き火の火は常温だと周囲の空気を暖め、人間はその暖まった空気で暖を得ている。こんなに極低温になると踊る火に暖められるのは一瞬で、すぐにまわりの極寒が熱を奪ってしまうから焚き火を囲んでもちっとも楽しくない。
火の上に水を入れた鍋を置いても、底の暖まった水は上に行くとすぐに温度が下がる。その繰り返しで鍋ひとつの水がなかなか沸騰しない。
それでも一家の生活のために、毎日なんらかの料理をするロシアのおばさんたちは見事にたくましい。着膨れてはいるが、市場などに行くと手袋をしていないおばさんが多い。体質が極寒に順応しているらしい。
街なかの市場で豚の首を誰が買うのか、じっと見物していたが商談は成立しない。これひとつで何日分かのおいしいスープが作れる値打ちものだろうから、店主はなかなか値下げしてくれないようだった。
椎名誠(しいな・まこと)
1944年、東京都生まれ。作家。主な作品に『犬の系譜』(講談社)『岳物語』『アド・バード』(ともに集英社)『中国の鳥人』(新潮社)『黄金時代』(文藝春秋)など。最新刊は『この道をどこまでも行くんだ』『毎朝ちがう風景があった』(ともに新日本出版社)。モンゴルやパタゴニア、シベリアなどへの探検、冒険ものも著す。趣味は焚き火キャンプ、どこか遠くへ行くこと。
椎名誠 旅する文学館
http://www.shiina-tabi-bungakukan.com
いつでも元気 2021.2 No.351