戦後75年
いま、語らねば
読者の戦争体験を紹介します
【お知らせ】全国からたくさんの方をご紹介いただき、ありがとうございます。新型コロナによる取材制限で、現在は手記のある方や関東地区の方から掲載しています。掲載する場合は編集部からご連絡します。
3月10日の深夜
東京大空襲
石塚有宏さん(90歳)
(東京・城北健康友の会桐ケ丘支部長)
私が生まれたのは満州事変前年の1930年、昭和恐慌のただ中だった。富山の貧農の次男だった父は12歳で丁稚奉公として単身上京。年季が明け菓子作り職人として独立し、東京の浅草で小さな菓子店を営んでいた。私は7人兄妹の長男として下町で育った。
1945年3月10日、深夜の東京大空襲。生死の境をさまよったあの夜のことは決して忘れることはできない。
自宅のすぐそばに焼夷弾が落ちてきて、寝ているところを叩き起こされた。当時15歳の私は、布団と学用品を積み込んだリヤカーを引いて慌てて逃げ出した。生後間もない末の妹を抱え病気の弟を背負った母と、5番目の妹をおぶった女中を連れて。父は一人、自宅に残った。
すぐ近くに小学校があり、普段から「空襲にあったら学校の地下室へ逃げろ」と訓練されていたから、まずそこへ向かった。ところが、リヤカーがあるために地下室へ入れない。仕方なく入り口に佇んでいると、小学校の屋上から1階までパアーッと焼夷弾の塊が突き抜けた。
すると入り口付近にいた人たちが地下室の鉄の扉を閉めて逃げてしまった。地下室は燃えなかったが、中にいた人はみんな窒息死した。数日後、たくさんの遺体が学校前の公園に並べられていた。みんな着の身着のままの姿で、焼けていなかった。
夜の隅田川
私たちは燃える小学校を後にして火のない隅田川の方角を目指し、すれ違いざまにぶつかる人たちを避けて、一晩中ただただ夢中で逃げた。
その最中のこと。目が見えないらしき人が「誰か私を連れてってください」と言いながら歩いていた。私たちは火災のない場所を目指して、なるべく暗い方へと逃げたが、その人は燃えている方へ向かっている。結局、逃げるのに必死で連れて行くことはできなかった。あの人はどうなってしまったのだろう。今でも忘れられない。
とにかく暗い方へと逃げて、行き着いた先は隅田川にかかる白髭橋のたもと。そこから先は川へ飛び込んで死ぬしかないという思いだった。寒い夜だったが、私は裸足に下駄履きで川べりに佇むほかなかった。
生き残った後も続く恐怖
やがて夜が明け自宅にたどり着いた。一面跡形もなく焼け野原で、遠くに焼け残ったデパートが見えた。商売をやっていた我が家には金庫があって、それだけは焼失をまぬがれた。
一人家に残っていた父は、すぐそばまで火が迫って来たため逃げ出したが、隅田川の方角ではなく逆方向へ行ったらしい。ススで真っ黒な顔の父に再会した時は、「とうちゃーん」と言って抱きついた。
その後、数カ月間は中学校へ通う途中で空襲で亡くなった人が隅田川を流れていくのを何度も目にした。リヤカーを引いて焼け残った親戚や知り合いを頼って寝泊まりし、ようやく赤羽の一軒家を借りて住むことになった。
当時そこは軍用地に囲まれており、陸軍被服本廠や火薬庫があった。当然ながら米軍の標的になり、日夜爆撃に襲われた。一番怖かったのは、操縦士の顔が見えるほど米軍機が接近し、「ダダダダダダッ」と機銃掃射に遭った時だ。そのたびに私たちは防空壕へ逃げ込んだ。まさに九死に一生を得る思いで奇跡的に生き延びながら、8月に敗戦を迎えた。
あの時は「戦争に負けた」という言葉はなかった。ただ「戦争は終わったぞ」「じゃあ死ななくて済むのか」という思いだけ。学校へ行くと「あの戦争は間違っていた」と言う先生もいた。
戦争がもたらしたもの
戦後は無法状態の中、日々ただ食いつなぐために、狭い庭にバラック小屋を建てて父の菓子屋を手伝った。機械などないから手作業で菓子を作り、私や妹たちが風呂敷に包んで問屋へ配達に行く。とにかく家族みんなが生きていくのに精一杯だった。
今みたいに自分の進路を選択できる時代ではなかった。なんとか大学までは行かせてもらったものの、できることなら大学院へ進学して先生になりたいという望みを親には言えなかった。戦争がなければ、違う道へ進んでいただろうとつくづく思う。
絶対に戦争をしてはいけない。戦争は人の命だけでなく、暮らしや夢や希望をも奪う。戦争に必死に堪えてきた私たちにとって、日本国憲法こそ本当にかけがえのないもの。憲法を守り生かしていくために、伝え共同することが、私たちが死を前にして果たす最後の使命かもしれない。
やっと進めた自分の道
父のあとを継ぎ零細な菓子屋からさまざまな食べ物商売を経て、67歳で弔事の仕出し料理の仕事に行きついた。仕事を通して葬儀現場の裏側を知り、形骸化し消費の対象になってゆく業者任せの葬送に、疑問を持つようになった。
地域で新しい葬送文化の創造に取り組もうと、NPO法人「エンディングコミュニティー縁生舎」を2004年に立ち上げた。実に70歳半ばでライフワークを見つけたことになる。
人それぞれの人生があり、いかに生きるかということは、いかに死ぬかということ。縁生舎はそれを基本理念に、「終活」をはじめさまざまな活動を行っている。“なぜ葬儀をするのか”“葬儀とはどうあるべきか”を考える勉強会を開いたり、社会福祉協議会や東京都北区主催の講演会に出向いて「自分らしい葬儀をやりましょう」と広報活動も行っている。
仲間の誰かが亡くなれば、従来のような葬儀会社任せではなく、どんな葬儀をしてほしいのか、親族や友人にそれぞれの思いを持ち寄っていただく。
自分たちでシンプルな祭壇を作り、葬儀会場は自治会会館を借りて、当日は香典を持たず普段着で来てもらう。なるべくお金をかけずに充分納得できる葬儀を企画して提案する。「いい葬儀ができたね」という言葉が励みになっている。
また、私は城北健康友の会桐ケ丘支部長を務めている。支部がある北区桐ケ丘地区は、都内で最も高齢化率が高い地域の一つ。ひとり暮らしや認知症の人も大勢いる。体の具合が悪くてもお金がないとか、最近はコロナの感染が恐いなどの理由で受診を控える患者さんが増えている。
支部でアンケートを作り「何か困ったことは」「してほしいことは」と呼びかけると「何人かで集まって話がしたい」という要望が強かった。しばらく中止していた「ふれあいトーク」を10人くらいで再開できた。あるアンケートには「私たちのことを思って、こんなふうに手紙をくれる友の会があってうれしい」と書いてあった。
NPOも友の会活動も、戦争体験が何かしら影響していることは間違いない。今後も感謝の声を励みに、人様に少しでも役立つ仕事を丁寧に続けていきたい。
聞き手・安長建児(編集部)
いつでも元気 2021.1 No.350