戦後75年
いま、語らねば
読者の戦争体験を紹介します
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標的になった小都市
水俣空襲
廣田孝さん(88歳)(みなまた健康友の会副会長)
私は熊本県水俣市浜町で生まれた。病気がちで体も小さく、小学1年の時は虚弱児童として家庭科室で給食を食べさせられた。天皇の赤子として、身命を賭して働く強健な身体を持つことは国民の義務だった。
給食のおかげか、しばらく経つと学校の裏山で遊び回る元気な子に育っていた。太平洋戦争が始まった1941年は国民学校4年生の時。神国日本に敵対する国は、どんな理由があろうと許されない。毎月1日、戦勝を祈願して全校生徒で濱八幡宮にお参りさせられた。
学校へ登校すると、まず校門脇の奉安殿に最敬礼をして教室へ入る。奉安殿には、天皇の写真(御真影)と教育勅語が収められてあり、学校で最も神聖な場所だった。
教師から教育勅語を暗唱させられ、「日本国民として絶対に守らなければならない天皇のお言葉で、これを実践できる人間になることが大切である」と教え込まれた。遊びも相手の陣地を攻略する戦争ごっこなどが多かった。
12月8日の朝、校長先生から真珠湾攻撃の話を聞いた。「アメリカやイギリスは日本の敵である。アジアの平和を守るために心を一つにして戦い抜かねばならない」と誓った。
「これからだ! 出せ一億の底力」 「忠君愛国」などの標語があちこちに貼り出された。町には「隣組」の歌が流れ、体育は体錬科となり集団訓練が強化された。
私たちは毎週、濱八幡宮の清掃に出かけ校長先生から褒められて喜んだ。ラジオは毎日のように日本海軍が敵の戦艦や駆逐艦を撃沈したことや、中国やマレー半島でも破竹の勢いで進軍していることを告げていた。食料が不足しても、戦地で頑張っている兵隊さんのことを思えば我慢するしかない。今は非常時で「不平など言ってはいけない」という状況が生まれつつあった。
42年4月、突如として大人たちが騒いでいた。敵機が東京を爆撃したという。日本の首都を爆撃するなど許されない。友人とは早く少年航空兵になって戦闘機に乗り、敵機を叩き落してやろうと話し合った。
44年、水俣実務学校農業部へ進学。農業の仕事は経験がなく、農業実習や便所のくみ取りさえ楽しかった。農繁期になると、出征兵士のいる農家に手伝いに行った。
学校には配属将校が来て教練が行われた。敬礼から始まり団体行進や軍事訓練があった。45年4月からは授業もなくなり、もっぱら農作業の毎日。米軍による本土空襲は、ますます激化していった。
機銃掃射に命拾い
水俣市の空襲は1945年3月29日から始まった。4月には自宅の庭に防空壕を掘った。深さ1・5m、縦1m、横3mほどの穴に戸板をかぶせ、その上に畳2枚を載せた。
5月14日には米軍53機が爆撃と焼夷弾攻撃を繰り返した。町中のいたるところに火災が発生し、日窒工場※も多大な損害を受けた。国民学校5年生の児童が機銃掃射で犠牲となった。
自宅の2階から屋根に出てみたら、あちこちに機銃掃射の薬きょうが落ちていた。数枚の瓦が砕かれていたので、軒先の瓦を外して入れ替えたが、それでも雨漏りは続いた。
私たちは防空要員として、警戒警報が発令されると夜でも学校へ駆けつけた。敵機に対して高射砲で応戦した時などは、「プーンプスッ」と何かが地面に突き刺さる音がした。「外に出るな! 高射砲のタマの断片だ」と言われて首をすくめた。
昼間は授業もなく、出征兵士の家の防空壕掘りや田植えの手伝い、山で切り出された坑木運搬などの作業をさせられた。私は農業部だったので工場に勤労動員されることはなかった。女子挺身隊として工場に動員された姉は、額に「神風」と書いた鉢巻を巻き、モンペ姿で午前7時前に出勤していた。
7月22日の登校中、突如「伏せんかー」と怒鳴られて振り向くと、黒いものが見えた。「危ない」と思って、とっさに側溝に飛び込んだ。田んぼの水がパッパッパッパッと跳ねる音がしたので、はっと思って顔をあげたら、頭上を黒い影が通り過ぎて行った。
7月27日の午後1時過ぎ、米軍7機が各所に爆弾を投下した。自宅へ昼食を食べに帰っていた私は、家族4人と防空壕に入った。入口にいた私は、機銃掃射の音と一緒に左脇腹に何かが当たったのを感じた。「やられた」と叫んで、そこを触ってみたが何ともない。よく見たら瓦のカケラが落ちていて、みんなで大笑いした。
7月31日午前10時30分、空襲警報のサイレンが鳴り響く。東方から米軍機が水俣に侵入して来た。山手町の裏山あたりから繰り返し日窒工場めがけて急降下爆撃を繰り返した。
龍山の中腹で開墾作業をしていた私たちは、慌てて座り込み木の枝や草を頭上に乗せて息を潜めた。
工場のあちこちに黒煙白煙が立ちのぼり、腹にこたえる爆音が轟いた。水俣駅前一帯の商店街は焼け野原に。日窒工場の裏山に掘られた防空壕に爆弾が当たって入口を塞ぎ、避難した26人が生き埋めとなった。ほかにも防空壕で直撃弾により5人が亡くなった。
8月9日午前11時過ぎ、長崎の方向にキノコ型の桃色の雲が立ちのぼるのが見えた。「あれは新型爆弾で、あの雲がこちらにやって来ると、その下は焼き尽くされてしまう」という噂が広まった。
8月11日の空襲を最後に、米軍機は全く姿を見せなくなった。8月15日、疎開先の家のラジオの前に集まり「変なおじさんの声」を聞いた。これが天皇の声だった。戦争が終わった。
受けた空襲は13回
県南の小都市にすぎない水俣市が、他の都市に比べて思いのほか被害を受けた理由として(1)日窒工場が典型的な軍需工場だった(2)隣接する鹿児島県出水市に海軍航空隊の大規模基地があった(3)水俣市は北九州各地を爆撃した編隊が、帰り道に残留爆弾を投下処分するのに最適の通り道だった、の3点が挙げられる。
3月29日の最初の空襲から130日の間に、水俣市には大小合わせて13回の空襲があった。投下された爆弾は約2000発、焼夷弾は数千発にのぼる。死者は69人で負傷者がどれだけいたのか分かっていない。
戦後、私の従弟は原爆症に苦しみ、50年間も入退院を繰り返して73歳で亡くなった。病気がちの私を可愛がってくれた叔父は、南の海で輸送船が爆破されて戦死した。
日本国憲法には、この忌まわしい戦争で犠牲になった多くの人々の心の叫びが結晶されている。私たちには九条の「戦争の放棄」「戦力の不保持」を堅持しつつ守り抜き、後世に引き継ぐ責任がある。
※日窒工場
日本窒素肥料株式会社の水俣工場。爆薬の原料など軍需物資を生産する化学工場で、たびたび空襲を受けた。戦後はチッソと社名を変更、工場からメチル水銀を垂れ流し水俣病の原因となった
いつでも元気 2020.12 No.349