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いつでも元気

いつでも元気

戦後75年 
いま、語らねば

 読者の戦争体験を紹介します

【修正】10月号15ページ欄外「沖縄戦」の終結を次のように修正します。「1945年3月26日に始まり6月23日に日本軍の組織的な戦闘が終わった。しかし軍命により、その後も散発的な戦闘は続いた。沖縄戦の降伏調印式は9月7日」

累々と重なった遺体

七夕空襲

千葉通子さん(82歳)(ちば北部健康友の会会員)

千葉通子(ちば・みちこ) 1937年、千葉市生まれ。千葉銀行勤務を経て、75年から千葉市議会議員(共産党)。2人の子どもを育てながら95年まで5期20年務めた。ちば北部健康友の会元幹事。「千葉市空襲と戦争を語る会」代表

千葉通子(ちば・みちこ)
1937年、千葉市生まれ。千葉銀行勤務を経て、75年から千葉市議会議員(共産党)。2人の子どもを育てながら95年まで5期20年務めた。ちば北部健康友の会元幹事。「千葉市空襲と戦争を語る会」代表

 私は戦前、現在の千葉市中央区院内で暮らしていた。太平洋戦争末期の1944年、今の小学校に当たる院内国民学校へ入学。徹底した軍国主義教育を受けた。全ての学校に御真影として天皇・皇后の写真が奉安殿にあり、この前を通るときは必ず最敬礼をしなければならなかった。
 授業の国語は「ススメススメ ヘイタイススメ」と教わり、音楽では「ぼくは軍人大好きよ。いまに大きくなったなら、勲章つけて…」。図画の時間は戦闘機と太陽の絵を描いたことを記憶している。また、作文で「お父さんが戦争に行って寂しい。早く帰ってほしい」などと書くと、「天皇陛下のために命を捧げる」と書き直さなければ認められなかったと聞いた。
 その年の8月1日、父に市役所から「赤紙」が届いた。戦争への召集令状だ。父はその後、横須賀海兵団へ入団。翌45年2月、佐世保港から中国の海南島へ向けて出港した。
 44年は本土空襲が本格化した年。警戒警報のサイレンが響くと授業中でも急いでノートや教科書をまとめ、防空頭巾をかぶる。空襲警報発令ともなると駆け足で校庭に集合。6年生を班長に町内ごとに2列に並び、わき目もふらず家に向かった。途中でB29の爆音が聞こえると、物陰や地べたに伏せ、そのまま爆音の遠ざかるまで動くことはできなかった。
 空襲もいよいよ酷くなり、45年3月10日の東京大空襲と同じ日に、銚子市が千葉県下で市街地初の本格的被害を受けた。
 5月にドイツが無条件降伏をしてから、米軍は日本全土の軍需工場と地方都市を次々と廃墟に変える新たな戦略を強めた。県内では真っ先に千葉市の日立航空機工場(現在のJFEスチール東日本製鉄所)が狙われ、6月10日の大空襲となった。

6月10日の大空襲
 日立航空機工場のほか、学校工場となっていた県立千葉高女(千葉女子高校)、千葉師範女子部(千葉大学)、千葉機関区(JR千葉駅)が攻撃され、死傷者391人、被災戸数415戸にのぼった。6月10日と7月7日の空襲を併せて千葉市空襲という

7月7日未明

 そして忘れもしない7月7日未明。空襲警報が鳴り響くなか、私は母にたたき起こされた。母は生まれたばかりの妹を背負い、7歳の私と5歳の弟を両手に引いて火の手から逃れた。避難民であふれた狭い道。母の手をしっかりとつかんだまま、人の波に押し流されて院内国民学校の前に出た。
 国民学校は炎に包まれ、隣の民家の真っ赤な柱がまさに焼け落ちようとしていた。焼夷弾で亡くなった人が炎の明かりに照らし出され、道に黒い影のように横たわる。それをまたぐようにして田んぼの方へ避難した。
 火の海の中を逃げまどい、路上や防空壕、本町国民学校地下道などで焼死した市民が多数いた。また、火の海をくぐり、海岸や埋立地、都川の上流に向かう避難民の列が続いた。
 夜明け近くに爆音もなくなり我が家へと向かったが、市街地は見渡す限りの焼け野原に。自宅近くの千葉神社の石塀と、本家の土蔵がくすぶっていることで家の位置が分かった。隣家の弟の友人は、母親、2人の妹とともに防空壕で焼け死んだ。
 私たち親子は、その日のうちに親戚宅に身を寄せた。すぐ近くの都川には、火の海を逃れ水を求めてたどり着いたであろう多くの人々の遺体が累々と重なっていた。その有様は、幼い脳裏に焼きついたまま離れることはない。

人口の4割が焼け出される

 後に「七夕空襲」と呼ばれた7日の千葉市空襲は、129機のB29が1万4200発の焼夷弾を投下。その量は東京大空襲のほぼ半分に当たるといわれている。死傷者は1204人、被災戸数約8500戸。当時の人口9万5000人のうち4万人、実に42%の人々が家を焼け出された。しかしその後の調査が不十分なため、これでも実態にはほど遠いといわれている。
 親戚宅は知人縁者でごった返し、やがて母の郷里である東北へ疎開した。学校では「東京から来た子」としていじめられた。疎開先では親子4人で間借りし、お米と菜っ葉の浮く雑炊をすすった。母乳が出ないため妹は重湯を与えられた。今、2人の子の母親である私は、その時の母の気持ちが痛いほどよく分かる。
 8月15日の終戦を伝えるラジオ放送は雑音ばかりだったが、子どもなりに戦争が終わったのだという実感、B29の爆音のない、雲一つない真夏の東北の青空を眺めたものだ。
 平和を迎えたとはいえ、食糧難で飢えの毎日が続き、戦時中とは違う苦労を国民は背負わされた。米の代わりにサツマイモの配給、肥料用の海藻や家畜の餌にするようなでんぷんカスのくさいお餅。学校給食の干しブドウや干しリンゴは大変なご馳走だった。
 バラック建ての空き地で、どの家も野菜を作った。学校は青空学校、やがて軍隊の施設だった格納庫が教室として割りあてられ二部授業が始まった。
 1946年3月、父が海南島から帰国し我が家もようやく春を迎えた。6畳1間のバラック住まい。ひもじい毎日だったが、人々の心は豊かだった。

次世代に語り継ぐ

 中学卒業と同時に千業銀行に就職し定時制高校に通った。組合活動の中で社会の矛盾に目覚め、1975年から千葉市の市議会議員(共産党)を5期20年務めた。
 市議会では平和の問題で質問や要望を繰り返した。行政の責任で戦争の記憶を継承するように求めた結果、87年から毎年、7~8月に市役所などで千葉空襲写真パネル展が開催されている。89年には市民運動で千葉市平和都市宣言が実現できた。
 2011年には「千葉市空襲と戦争を語る会」を立ち上げ、空襲犠牲者を調査し名前を記した記念碑を設置。空襲の実態調査や戦跡ガイドマップ作り、語り部活動などを続けている。
 今年の7月には新聞社から相次いで戦争体験の取材を受け、社会面の記事になった。私より年上の人は少なくなり、戦争体験者の中では若い方の私が記憶を継承する代になったのかと思う。私の弟は空襲当時5歳だったが、当時のことは点でしか記憶がない。やはり6歳以上でないと時系列で覚えていることは難しいのではないか。まさに「いま、伝えなければいけない」と強く思う。
 毎年、空襲があった7月7日前後には慰霊祭を行っているが、参列者は年々減少している。戦後生まれが全人口の85%にのぼり、空襲を含む戦争の記憶は人々から遠ざかりつつある。
 私は若い人に空襲のことを語る時、「千葉駅から県庁まで一面焼け野原になったんだよ。想像できる」と聞いている。いつかは戦争体験者がいなくなる時代が来る。その前に次世代に語り継いでいくのが私たちの責務だろう。
(千葉さんの手記を編集部で加筆、修正しました)

いつでも元気 2020.11 No.348