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いつでも元気

いつでも元気

濁流にのまれた集落 
熊本

光永顕彰(水俣協立病院医師)

鉄橋が崩落したJR肥薩線の「第二球磨川橋梁」=熊本県球磨村渡地区 7月12日

鉄橋が崩落したJR肥薩線の「第二球磨川橋梁」=熊本県球磨村渡地区 7月12日

 7月上旬の豪雨は、熊本を中心に死者・行方不明者が80人以上と大きな被害をもたらした。
 熊本県八代市坂本町に住む光永顕彰さん(水俣協立病院医師)の家族8人は、球磨川の氾濫で集落が孤立。
 翌日にヘリコプターで救助された。
 光永さんが被災直後の7月9日に書いた手記を掲載する。

7月4日未明

 私の実家は球磨川沿いの西鎌瀬という集落にある。明治時代に作られたJR肥薩線第一橋梁の近くだ(赤い鉄橋は今回の豪雨で3分の2が流出した)。八代市内から車で30分ほど。過去にも数回水位が上昇し自宅付近まで水が来たこともあり、数年前に国交省の事業で数mのかさ上げ工事が施工された。堤防には1カ所の水門が付いており、洪水時は国交省の職員が閉じることになっていた。
 私の家族は祖母、両親、妹、妻と2人の子ども(3歳、1歳)の計8人。妻は妊娠しており、9月末には3人目が生まれる予定だ。球磨川の雄大な流れと鉄橋を見ながら時間を過ごすことが、私たち家族の些細ではあるが大切な楽しみだった。
 7月4日の朝、これまでの「当たり前の生活」は球磨川の轟音とともに流れ去った。3日の夜は緊急避難速報のアラームを聞きながら、「かさ上げもしたし大丈夫だろう。いつもの大雨だ」という気持ちで床についたのを覚えている。普段の大雨程度では避難まで必要になることはなかった。
 朝5時過ぎ。青ざめた顔をした妹に起こされ、2階の窓から外を見た時には既に自宅前に茶色に濁った水が流れ込み始めていた。堤防の水門は開き放し。集落のお年寄りたちが、オロオロしながら水が流れ込まないように、水門を閉じることができないか試行錯誤している。母が真っ青になりながら何回も国交省職員に電話している。
 「これは大変なことになるぞ…」。寝ぼけた頭が急激に覚醒、早くなる鼓動を感じながらすぐに1階に下りた。降りしきる雨の中、水門を閉じようとしたが鍵がなく動かない。水門を諦め、父、妹と一緒に自家用車と保育園のバスを高台にある国道のドライブインまで移動させた。

背筋が凍る

 その間にも水位はみるみる上昇し、避難用の車を自宅前まで移動することが難しい状況になった。当初は96歳で足の悪い祖母と子どもたちを2階へ避難させることも考えたが、水位上昇のスピードから家自体が流される可能性もあり、家族全員が車で避難することにした。
 父が祖母をおぶって車まで移動させる頃には、水は膝ほどまで来ていた。祖母を抱えふらふらしながら歩く父の姿を見ながら、なんとか車まで無事についてくれと願いつつ車いすをトランクに積み込んだ。家族全員が乗ったのを確認し、妹が車を発進させた瞬間、道路左にあるコンクリートの堤防の上から、襲いかかるように茶色の濁流が噴き出し広がった。
 ものの数秒の光景だったが本能的に「死」を感じたからなのか、スローモーションになった。「とにかく突っ切れ!」。妹に怒鳴り、アクセル全開で水しぶきを上げながら堤防の前を駆け抜け、国道沿いにある高台まで移動した。
 後ろを振り向くと、車を置いていた場所は腰から肩の高さまで水が上がってきていた。あと1分遅ければ…。背筋が凍る思いがした。安心したのも束の間、バスや自家用車を置いていたドライブインまで水が流れ込み、車をのみ込もうと広がっていた。
 祖母と妻、子どもたちを国道沿いの高台へ移動させた後、父と一緒に車を移動させた。高台には西鎌瀬集落の住人約20人が各々の車で避難していた。幸い保育園のバスがあったため、なるべく住人をバスの中に集め、体調管理をすることにした。集落の住人は80~90歳と高齢だが元気だ。「生まれてこの方、こんなことはなかった」。みな口々につぶやいた。

道を塞いだ土砂と倒木

 国道沿いの高台の崖の下には集落と川、背後には山があり、崖崩れが起きれば逃げ場はない。避難場所の近くには民家が2軒あり、そのうち1軒は高齢の女性が一人暮らしをしている。父と一緒にその女性の安否を確認しに行った。
 5分ほど声をかけ続けた後、やっと女性は顔を出した。すぐにみんなと合流することを勧めた。山から流れ出る水で川のようになっている国道を、女性の腕を支えながら移動した。
 その10分後くらいだろうか。「バキバキッ」という音がして、大量の土砂と倒木でついさっき歩いてきた道が塞がれ、家がのみ込まれてしまった。大きな音が出ていたのだろうが、あまりにも唐突な出来事で音の出ない映像を見ているように感じた。
 土砂で埋まってしまった家に住んでいた住民の「ギャー」という悲鳴で我に返り、崖の下に止めていたバスを動かし、崖からなるべく離した。川だけでなく山も牙を剥いていた。
 午前7時ごろにはヘリコプターの音がひっきりなしに聞こえるようになった。ヘリが通るたびにタオルなどを持って手を振った。何回も繰り返すうちに疲れ、涙を浮かべながら通り過ぎるヘリを見上げるだけになっている住民もいた。
 かき集めてきたパンやバナナを子どもたちに食べさせながら、何ができるかを考えた。避難している住民の中で動ける若い男性は自分と父を含め3人だった(1人は元消防隊員)。
 まずは避難している全員の健康状態を確認するため、落ちていたレシートの裏に名簿を作り、年齢と健康状態をメモした。搬送の優先順位が分かるように、薬を飲んでいる人や持病などの必要な情報も記載した。救助が来た際にはそのメモを渡そうと考えていた。

孤立した集落

 しばらくして雨が上がり、青空も見えるようになってきた。目の前の崖下には「ゴーッ」という音とともに流れる球磨川の濁流が集落をのみ込み、1階部分か屋根の下まで浸水していた。対岸の下鎌瀬の数軒は、濁流にのみ込まれ音を立てながら流されていた。
 川にはさまざまな物が流れていた。冷蔵庫や机や小屋など。車だろうか、煙を上げながら流されているものも。鉄橋も完全に浸水し、倒木やゴミでいっぱいになっていた。崖下の左の方にあるトンネルからも濁流が轟々と流れ、大きな水道管のようになっていた。
 午前11時ごろだろうか。「メキメキッ」という音とともに、鉄橋が約3分の1を残し流出。自分の心の一部もなくなったような感覚があった。集落のお年寄りは顔を覆い、泣いていた。
 崖崩れで八代市へ抜ける道はなくなった。球磨村の方へ行けないかと思い、父と2人で車に乗り泥や倒木の中を進んだ。「橋がない!」。父の声で前方を見ると、球磨川にかかっていた鎌瀬橋が柱だけを残してなくなっている。私たちは完全に孤立したのだ。車での避難は不可能となった。
 ヘリでの避難になるだろう。でもいつ? どのように? 動けない祖母は避難生活に耐えられるのか。さまざまな考えが脳裏をよぎった。全員は助からないかもしれない。何があっても妻と子どもの命は助けないと。命の選択を迫られているようで、胸が締め付けられる感じがした。

滝から水を調達

 消防や警察に電話を入れ、現状を伝えた。ただ、いつ救助に来れるのかは全く分からないとの返答だった。午後3時以降は携帯もつながらなくなり、外界の情報はラジオでしか収集できなくなった。連絡はどこにもできない。昼過ぎには水が引き始めたが、各々が持ってきた飲料水や食料は底を尽きかけていた。「お腹減った」。子どもたちが泣き始める。
 父と元消防隊員と3人で、自宅から食料を取ってくることにした。午後4時ごろには、自宅の1階部分には入れる状態になっていたため、袋を持って調達に出かけた。幸い崖には道があり、そこを下りて行った。自宅の周りは土砂で覆われ、玄関は軋んでうまく動かなかった。力ずくでドアを動かし、できた隙間から入り、リビングの鍵を開けそこから食料を搬出した。
 数時間前にはいつも通りだった1階部分は泥にまみれ、畳は浮き上がり、冷蔵庫はひっくり返っていた。食料だけでなく、かろうじて残っていた毛布や布団も運び出した。朝炊いていた白米もジャーに残ったままになっていた。カセットコンロも運良く残っていたため、食器とともに避難場所まで持っていった。
 遅めの昼食はジャーの中に残っていた白米とスナック菓子だった。「キャンプだよ」と子どもたちに伝えた。少しの時間だが、住民にも笑顔が見られた。
 毛布や布団をバスの中に入れ、夜は誰がどこに寝るかを決めた。自家用車が流された世帯もあり、バスが貴重な居住スペースになっていた。夕食はカセットコンロを使って暖かい麺類を作った。水がなかったため、土砂崩れが起きた場所にできた山水の滝から水を調達。シャワー代わりにも使った。

月明かりの下で

 夕方、暗くなるタイミングで雨が降ってきた。今日は車の中で寝るのだが、眠れそうにない。暗闇の中で土砂崩れが起きたら、知らない間に流され死ぬだろう。子どもたちをしっかりと抱きしめながら、月明かりの下で持ってきた絵本を読み聞かせ寝かしつけた。初めはぐずったが寝てくれた。どこでも眠れる子どもの強さに「いつの間にこんなに強く成長していたんだろう」と少し涙が出た。
 必ず安全な場所に避難させないと。祖母や妻の全身状態を確認しつつ、懐中電灯を持って見回りをした。みんな眠れそうにない。幸い雨は上がり、月夜だった。明かりがなくても川を見渡せる明るさだった。濁流の音が耳から離れない。いつの間にか眠っていた。

ヘリの爆音で目が覚める

 翌7月5日の朝、ヘリコプターの爆音で目が覚めた。外を見ると、今までにない低い高度でヘリが飛んでいる。上空を少し旋回した後、避難場所の先の道路に自衛隊員がロープを使って下りてきた。昨日作ったメモを急いで手に持って隊員のもとへ走り、避難住民の概要を伝えた。
 全員が無事なこと、高齢者と妊婦がいることを伝えると、「全員移動する準備をしてください」と言われた。隊員は着陸場所を探しに走って行った。妻や妹は泣きながら移動の準備をしていた。「助かるかもしれない。でもまだ油断できない」。強風や雨が降ればヘリは動けないからだ。
 運良く浸水していた畑が更地になっており、そこに着陸できそうとのことで移動を開始した。祖母を車に乗せて移動したが、担架が必要なため2便目以降にしてくれと頼まれた。1便目は妻と子ども、妹、歩ける高齢者の計7人になった。3歳の長男は不安そうな顔だったが、ヘリに乗れることは嬉しいようだった。
 上昇するヘリを見ながら手を振った。自然に涙が溢れた。同時に「1人でも死んだら意味がない」、そう感じた。まだ住民は半分以上残っている。着陸しやすいように、ノコギリで着陸場所周辺の倒木の枝を切って回った。
 優先順位を考えながら2便目以降の避難準備をした。数十分単位でヘリは往復し、八代市の会地公園に向かって飛んで行った。
 最後の便で父、母、自分を含めた6人がヘリに乗った。小雨が降り始めていたが風はなかった。ヘリの床に直に座り、3人の隊員とともに上昇した。眼下に広がる茶色に染まった故郷を見ながら、安堵と絶望、両方の感情が心を満たしていた。
 「全員、命は助かったんだ。それが一番大事じゃないか」。エンジン音でかき消されそうになりながら、父につぶやいた。父は黙って窓の外を眺めていた。
 公園に着陸すると多くの人が駆け寄ってきて、母や父に抱きつき握手をしていた。夢から覚めたような変な感覚だった。やっと「被災した」ということがのみ込めてきた気になった。
 公園からバスに乗り、妻や子どもたちが待つ総合体育館まで移動した。バスから降り、体育館の入り口で待つ妻を見つけ抱きしめた。2人とも泣いてしまい声が出なかった。子どもたちはご飯をお腹いっぱい食べていると聞き、「助かったんだ」という実感が少しずつ湧いてきた。

 これが被災した7月4日から5日にかけての経過です。現在、私の家族は八代市の叔母の家に身を寄せています。私は水俣協立病院に戻り、ホテル住まいで勤務を開始しています。集落は依然孤立しており、片付けにも戻れません。仕事をしていた方がいろいろと考えなくて済みます。
 九州だけでなく、全国に大雨の影響が出ています。復旧の見通しも立たず、正直坂本町自体が今後、存在できるのかも分かりません。しかし、私たちは生き残ったのです。亡くなった方の分までできることをする。それが今の自分の役割だと思います。
 今回の出来事で強く感じたことが2つあります。避難は油断せず、早めにすること。そして今、目の前にある幸せや日常は「当たり前」ではないことです。この文章を読んで、何か感じた方がいるのであれば、まずは自分の周囲にいる人を大切にし感謝することから始めてください。それが一番伝えたいことです。
 支援に来ていただける方、物資を送っていただいた方、そのほか温かい声をかけていただいた皆さんには感謝してもしきれません。本当にありがとうございます。復興には息の長い支援が必要です。支援をしていただける方がいれば、被災者を代表してお願い申し上げます。

川岳保育園のスクールバス。光永顕彰さんの父、光永了円さんは、社会福祉法人川岳福祉会理事長。法人は保育園のほか特別養護老人ホーム「坂本の里一灯苑」などを運営。今回の豪雨で甚大な被害を受け、熊本県民医連の支援が入った


豪雨災害義援金

 全日本民医連は7月上旬に九州をはじめ全国各地を襲った豪雨災害の義援金を呼びかけています。被災地の復興のため皆さんのご協力をお願いします。
【振り込み先】
中央労働金庫 本店営業部 
普通145325
全日本民主医療機関連合会
代表者 岸本啓介
【受付期間】9月15日まで


光永顕彰
福岡大学医学部卒。
2014年に民医連入職。
くわみず病院(熊本市)を経て、19年から水俣協立病院(水俣市)勤務

いつでも元気 2020.9 No.346