映画『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』
聞き手・武田 力(編集部)
<映画『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』>
石川県出身の坂本菜の花さんは15歳で親元を離れ、沖縄県那覇市のフリースクールに入学した。併設の夜間中学に通うおじいやおばあたちとの交流を通して、彼らの明るさの裏側にある戦争の傷跡を知らされる。沖縄では現在も米軍基地があるがゆえの事件や事故が多発。彼女は現場に足を運び、そこに住む人々の声に静かに耳を傾ける。
話題になったテレビ・ドキュメンタリーに新たな内容を付け加えて映画化した「ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記」。
本土からやって来た1人の少女のまなざしと言葉を通して、沖縄の米軍基地問題を描きます。
監督した沖縄テレビ報道部の平良いずみさんに話を聞きました。
映画タイトルの「ちむぐりさ」はウチナーグチ(沖縄方言)で、「あなたが悲しいと私も悲しい」というニュアンスの言葉です。単に「かわいそう」「気の毒」とは違う、本土にはない表現だと思います。米軍基地関連の事件や事故が起こるたびに、その現場で私がしばしば耳にしてきた言葉でもあります。
2017年、普天間市の小学校の校庭に米軍機の窓(約8kg)が落下する事故がありました。当時は体育の授業中で、54人の子どもたちが校庭にいました。
現場に行って母親たちに話を聞いたのですが、はじめはお互いに泣いてしまってインタビューにならない。その時、「米軍基地はなくなってほしいけれど、辺野古に基地が移設されたら、辺野古の人が同じ思いをする。それはちむぐりさだね」って。その母親たちからも他人を思いやる「ちむぐりさ」という言葉が自然に出てきました。
いのちと暮らしの問題
米軍基地の問題は国の安全保障政策に関わりますが、沖縄県民にとっては何よりいのちと暮らしの問題です。それをまっすぐ伝えようとしても、政治的な対立構図に落とし込まれて、本土の人たちにうまく伝わらないもどかしさがありました。
この映画の主人公は、石川県から高校進学のために沖縄へやって来た坂本菜の花さん。彼女のまなざしと言葉を通して米軍基地の問題を描いたら、今までと異なる伝え方ができるのではないかと考えました。
彼女が高校に在学した3年間だけをとっても、たくさんの事件や事故が起きました。彼女は自ら進んで現場に足を運び、澄みきった人間性で、見て感じたままを言葉にしてくれた。その言葉の力を借りることによって、映画を観た方の心や皮膚感覚に直接響く作品になっていると思います。
だからと言って、こちらから何かを仕掛けたり、彼女の言葉を引き出そうと演出したわけではないのです。むしろ現場では、あえてインタビューしないように心がけました。
現場に行くというのはある意味、矛盾や葛藤をありのまま、複雑なままで受け止めることです。現場で彼女が見せる不安そうな表情やつらそうな顔、沈黙や逡巡からも確かに伝わってくるものがあります。さらに、そこに生きる人たちの声に真摯に耳を傾け、自分の頭で真剣に考えて紡ぎ出された言葉だからこそ、彼女の言葉には力があるのだと思います。
小さな声に耳を傾けて
私は地元の沖縄テレビで仕事をしていますが、普段の報道ではどうしても“客観・中立”を求められるところがあります。情緒的な言葉も引き算せざるをえない。
でもシーソーで言えば、圧倒的な国家権力が一方にドーンと座っているわけです。その場合の“中立”とは、(権力とは反対側の)県民にできるだけ近づいて丁寧にその声を拾い届けることではないか。ドキュメンタリーでは、なおさら大切な視点です。
沖縄の問題を一緒に考えるために、本土にはなかなか届きづらい小さな声に耳を傾けてほしい。民意が無視されたり、いのちと暮らしが蔑ろにされる姿は、本土の方々にとっても決して他人事ではありません。
身近にある小さな理不尽に向き合い、「おかしいな」と思う人が増えれば少しずつでも状況は変えられます。
自分が変えられないように
先日、菜の花さんに会った時、「この映画はこれから生きる上での原点」と話してくれました。自身が映画の中で引用したガンジーの言葉が「いま自分に返ってきている」とも。それは次のような言葉です。
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。
みなさんの中で沖縄についての会話が生まれることを願って、この映画を送り出したいと思います。
7月18日(土)より愛知・名古屋シネマテーク
7月24日(金)より京都シネマ
8月8日(土)より石川・シネモンドほか
全国順次公開/106分
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いつでも元気 2020.8 No.345
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