椎名誠の地球紀行 マイナス48℃の氷結化粧
椎名誠
これも地球温暖化の片鱗だったのかもしれないけれど、今年の日本の冬はたいへん暖かかった。
これまでぼくは南極圏や北極圏(極点ではない)まで旅をしてきたが、その両極の氷が恐ろしいくらいにどんどん溶けて後退していくのを見てきた。まるでダイエットしている地球を見ているようだった。もっともダイエットの場合は、主に脂肪分を減らしていくのだろうからあまりいいたとえではない。
地球全体がだらしなく溶解していく風景を見ながら、ぼくはそれでも地球は300年とか500年ぐらい溶けていってもなんのその! という確証を得られる大きなエリアがあるのを知っている。
それはユーラシア大陸の北部、シベリアと呼ばれるところである。ここにはタイガという幹の細い森林が大陸の北部を覆い、人の侵略を寄せつけない。
シベリア北東部のウスチネラやヴェルホヤンスクという町は、マイナス67・8℃という極低温を記録している。北極圏よりも低い気温だが、それでも人が住んでいる。
北極圏は海に面しているのでシベリアほど温度が下がらない。ちなみに世界最低気温を記録したのは南極のマイナス89℃。そこには人は住んでいない。
遊牧民は靴下を履かない
シベリアの極寒地帯では馬やトナカイを放牧している。遊牧民は下着から動物の毛皮を着ていて、いちばん外側は熊の分厚い毛皮だ。驚いたのは熊皮のブーツの下には靴下を履かず、幅広のフェルトを二重に巻いていた。フェルトのほうが寒気に対応して常に縮んでいこうとする性質があるので、「靴下よりも便利で安全」と言っていた。
この写真を撮ったのはヤクート(今のサハ共和国)を、北極海に向かって流れている大河レナの河原。河は1~2mの氷が張り詰め、それが北極海に向かって数千kmの「氷の河」となって続いている。
もちろん河原にも氷が堆積しているので河幅が分からず、河と陸の境も全く分からない。
ここで働いている住民は顔の周囲を包んでいるが、10分もすると呼吸する息が防寒用の衣服や髪の毛などに付着し、たちまち凍結して顔中氷だらけになる。吐く息は髭、鼻毛、眉毛、帽子から出ている髪の毛、帽子のフチなどにも付着するので視界が悪くなる。
荷運び用に連れている馬も、自分の呼吸で顔をどんどん白く染めていく。特に目の周りは吐息による氷の付着が早い。不思議だったのは、水分の多い眼球の表面がよく凍結しないものだ、ということだった。目の表面には常に体液が流れているから大丈夫、という理由を知った。
ぼくが訪問したときの気温はマイナス48℃程度。シベリア全体でいえばまだまだ、ということらしい。
椎名誠(しいな・まこと)
1944年、東京都生まれ。作家。主な作品に『犬の系譜』(講談社)『岳物語』『アド・バード』(ともに集英社)『中国の鳥人』(新潮社)『黄金時代』(文藝春秋)など。最新刊は『この道をどこまでも行くんだ』『毎朝ちがう風景があった』(ともに新日本出版社)。モンゴルやパタゴニア、シベリアなどへの探検、冒険ものも著す。趣味は焚き火キャンプ、どこか遠くへ行くこと。
椎名誠 旅する文学館
http://www.shiina-tabi-bungakukan.com
いつでも元気 2020.4 No.342