映画
一粒の麦 荻野吟子の生涯
文・片岡伸行(記者)
数々の女性差別と闘い、日本の女性医師第1号となった荻野吟子。
その苦悩と愛を描いた映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」が10月から上映される。
監督の山田火砂子さんに話を聞いた。
─荻野吟子とはどういう女性でしょう。
荻野吟子は江戸時代の終わり、1851年に当時の武蔵国俵瀬村(現在の埼玉県熊谷市)で、名主だった父・荻野綾三郎と母・嘉与の五女として生まれました。
幼い頃から聡明な女性だったようです。17歳で結婚しますが、夫に性病をうつされ子どもを産めない体になり、わずか2年で離婚。治療のために入院しますが、男性医師の診察に屈辱と羞恥心を覚えます。男性医師に診られるのが嫌で自殺する女性さえいた時代。吟子は自分と同じ境遇に泣いている女性のため、医師になる決意をします。
しかし、当時の日本には女性に医師の資格を与える制度がありませんでした。吟子は1879年(明治12)に東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大)を首席で卒業、医学校も優秀な成績で卒業しますが、医師になるには「医術開業試験」を受けなければなりません。当時の東京府や埼玉県に願書を出しますが却下されます。女性差別の厚い壁に阻まれたのです。
内務省に直談判し、ようやく試験を受けられたのは1884年。女性医師第1号となったのはその翌年、吟子が34歳のときです。医師になると決意してから十数年、不屈の精神と努力で厚い壁を打ち破ったのです。
─映画では吟子を若村麻由美さんが熱演しています。医師になるまでの半生もすごいのですが、ここからがまた激動の人生ですね。
吟子は東京都文京区で「産婦人科荻野医院」を開業し、本郷教会で洗礼を受けて社会運動に身を投じます。キリスト教婦人矯風会に参加し、当時禁じられていた女性の衆議院傍聴を求める運動や公娼制度廃止運動に参画、女性の権利向上のために先頭に立って活動します。
1890年、39歳のときにクリスチャンの志方之善と結婚。志方は13歳年下でした。その翌年に岐阜県で濃尾大地震が起き、親を失った多数の孤児が出ました。その保護に立ち上がったのが日本の知的障がい者教育の創始者である石井亮一で、吟子と志方はこの運動に賛同し荻野医院に孤児たちを預かるのです。
─俳優の山本耕史さんがその志方を好演していますが、それから2人は北海道に渡りますね。
志方にはキリスト教による理想郷を作る夢があって、吟子を東京に残して同志たちと北海道の原野を開拓します。吟子も1894年に合流。瀬棚村(現在のせたな町)で医院を開業し社会運動も始めます。無理がたたったのか、志方は41歳の若さで病死。吟子は1908年に東京に戻り、本所(現在の墨田区)で医院を始めますが、1913年(大正2)に脳卒中で倒れ62年の生涯を閉じました。
─山田さんは87歳と日本の女性監督で最高齢です。どんな思いでこの映画を製作したのでしょう。
明治という時代は「女子三従の教え」という言葉があるように、生まれては父に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従うという「女三界に家なし」でした。「女に学問なんていらない」「女は子どもを産めばいい」と言われて、社会的な差別を受けました。
最近も大学医学部の入試で女性差別があったように、100年以上経った現在でも日本社会の男尊女卑は続いています。差別の壁を打ち破るために、先頭を切って闘ったのが吟子です。女性や弱者、障がいのある人に寄り添った一生でした。
多くの人に吟子の生涯を知ってもらい、この社会から女性差別をなくすよう、女性たちにはもっともっと強くなってほしい。吟子の生きざまは多くの女性たちの明るい灯火になるのではないか。そんな一念でこの映画をつくりました。
─日本赤十字社、日本医師会、日本女医会など多くの団体が後援しています。
吟子は「埼玉ゆかりの三偉人」と言われています。埼玉県や熊谷市のほか、ロケをした北海道せたな町なども後援しています。若村さん、山本さんをはじめ綿引勝彦さん、渡辺梓さん、佐野史郎さん、柄本明さんら出演陣も多彩。ぜひ映画館に足を運んでほしいですね。
映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」
(山田火砂子監督、カラー110分)
◇試写会(9月) 7日午後2時から東京・中野ZEROで(舞台挨拶あり)。ほか1日に埼玉県熊谷市と群馬県千代田町、21日に埼玉県本庄市、28日に千葉市で上映あり
◇ロードショー 10月26日よりケイズシネマ新宿と熊谷シネティアラ21 11月2日より名古屋シネマスコーレ/11月30日より横浜シネマリンなど
◇製作協力券 当日券1800円のところ1200円で発売中
◇問い合わせ 現代ぷろだくしょん(03・5332・3991)
いつでも元気 2019.9 No.335
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