あすをつむぐ看護
文・新井健治(編集部)
写真・野田雅也
幌市東部、閑静な住宅街にサイレンが響き渡る。また1台、勤医協中央病院に救急車が到着した。救急隊員がストレッチャーで素早く患者を降ろし、「ER」(救急センター)と書かれた真っ赤なドアを開け処置室へ。待ち受けた医師と看護師がいっせいに集まる。
隣の北広島市から30分かけて搬送されたのは、胸が苦しいと訴える高齢の女性。「今日は何月何日ですか」「ここは、どこでしょう」。患者の耳元で声をかける医師。傍らで看護師の畑山真幸さんが各種モニターを取り付け、血圧を測り血中酸素の値を確認。無駄のない動きは美しくさえある。
勤医協中央病院は毎年約8000台の救急車を受け入れる。ウオークイン(独歩や車いすで救急総合外来を受診)の救急患者も2万人にのぼる。
「路上で倒れていたホームレスの人が運ばれることも。脈拍、体温、血圧などを確かめ、まずはシャワーで体を洗ってから処置をすることもあります」と畑山さん。
身寄りがない、アルコール依存症で何度も受診する。睡眠薬を大量に飲んだ…。他院では受け入れが難しい患者が運ばれる。救急隊員はこう言う。「最後は勤医協さん」。
「まずは引き受ける。たらい回しをなくしたい」(救急センター長・田口大医師)との方針のもと、“断らない救急”が同院の目標だ。だが、実際は容易ではない。毎朝夕の調整会議で入院ベッドを確保。それでも空きがない場合は、外来の処置室で一晩を過ごしてもらうこともある。
大切な気持ちの切り替え
畑山さんは母親が勤医協の看護補助者で、小学生の頃は学校から帰ると母の職場へ行き、同僚の看護師に遊んでもらった。高校卒業後に看護学校へ。25歳からずっと同院で働いている。
子どもは21歳の長女を先頭に4人。毎日が慌ただしく「気づいたら何年も経っていた」と振り返る。 「寂しい思いもさせましたが、たとえ短い時間でも親子の会話は大切にしてきました」。
救急搬送は1日10~30件とバラツキがあるうえ、時間帯によっても違う。日中は午後1時ごろから途切れることなく続き、真夜中こそいったん減るものの、高齢者が起きる午前5時ごろからまた増え始める。「常に緊張感のある職場ですが、オンとオフの切り替えが自然にできています」と畑山さん。
地震に活きた災害訓練
昨年9月の北海道胆振東部地震では、市内半数の災害拠点病院が診療不能に陥るなか、勤医協中央病院は発災直後から診療を続け負傷者を次々と受け入れた。その情報はNHKのテロップにも流れ、道民に大きな希望を与えた。
畑山さんは「地震の3日前に、ちょうど机上訓練を行ったばかり。トリアージ※ポストの作り方などシミュレーションが役立ちました」と話す。同院は毎年、消防局と連携し、実践的な災害訓練を行っている。
ERに専属の事務職員が24時間体制で常駐するのも特徴。受付、家族対応、文書作成、入院手続きの説明など、さまざまな業務をこなす。搬送段階からソーシャルワーカーが介入し、無料低額診療をはじめ生活相談に乗るのも民医連の病院ならでは。
救急医療に携わるようになって、「患者の立場に立つ看護」の意味をより深く理解できるようになってきた。理不尽な要求をされたり、暴言を吐かれた経験もあるが、「見た目で分からなくても、何かしらの苦痛や不安があるのかもしれない。体も心もダメージを受けている場合がある。それを忘れちゃいけない」と言う。
最後に看護師のやりがいを聞いてみた。「うーん、難しいですね」。慎重に言葉を選びながら、「民医連の無差別平等の理念を大切に、患者一人一人に必要な療養支援につなげていきたい」と語った。
※トリアージ 大規模災害などで同時に多数の患者の診療が必要な場合、手当ての緊急度によって優先順をつけること
いつでも元気 2019.9 No.335