ささやかな楽しみ
180万人が避難するイラク
安田菜津紀
中東に位置する国の一つイラク。ずっと戦禍が続いてきたこの国も、2017年7月に過激派組織「イスラム国」(IS)との戦闘がほぼ終結しました。しかし2年が経つ今も、破壊された故郷に帰れず、過酷な環境の中で180万人近い人々が避難生活を強いられています。
ムハンマドくん(14歳)は、イラク北部のキルクーク県ハウィジャに暮らしていました。ハウィジャはISの主要拠点の一つで、イラク軍と激しい戦闘が繰り広げられました。2014年10月のある夜、ムハンマドくんは自宅の外で大きな爆発音を聞きました。「雨が降っていたけれど、飼っていた羊がどうしても心配になって。様子を見に屋根に上ろうとしたんだ」。ムハンマドくんの記憶は、そこで途切れます。
目を覚ますと、そこは病院のベッドの上。ムハンマドくんは右腕のひじから先が切断され、左手も指が3本しか残っていないことに気づきます。「恐くなって、ただただ泣いていました」。屋根に上ろうとした時、ISを攻撃する爆撃で近くの送電鉄塔が倒れムハンマドくんは感電してしまったのです。ハウィジャでは十分な医療処置ができないため、200kmも離れた別の街の病院へ搬送されました。
いつか自由に絵を描きたい
退院後、ハウィジャから遠く離れた国内の避難民キャンプでの暮らしが始まりました。夏は気温が50℃近くになりますが、電気の乏しいキャンプでは冷房を十分に使えません。ムハンマドくんが向き合わなければならないのは、キャンプの厳しい環境だけではありません。友達と遊ぼうにも今の腕の状態では以前のように楽しめず、「もう希望なんてない」といつしか家にこもるようになりました。
そんな日々の中で見つけたささやかな楽しみが、絵を描くこと。好きなアニメのイラストや出会った人の似顔絵、風景などを描くうちに、「もっと絵が上手になりたい」という思いが支えになったと言います。初めて見たアニメのミッキーマウスの絵を、得意そうに見せてくれました。支援団体から紙や文房具をもらい、気づけば2時間近くも夢中になって描き続けているときもあるそうです。
人が生きていくために必要なのは水や食料、雨風をしのぐ場所だけではなく、ささやかな楽しみや目標を見出せる環境ではないでしょうか。いつか義手を手に入れて、もっと自由に絵を描くことがムハンマドくんの夢です。
安田菜津紀(やすだ・なつき)
フォトジャーナリスト。1987年、神奈川県生まれ。上智大卒。東南アジア、中東、アフリカなどで貧困や難民問題などを取材。サンデーモーニング(TBS系)コメンテーター。著書・共著に『写真で伝える仕事~世界の子どもたちと向き合って』(日本写真企画)『しあわせの牛乳』(ポプラ社)など
いつでも元気 2019.9 No.335