ガマフヤー
遺骨を掘る男
写真家 森住卓
6月23日は沖縄戦終結の「慰霊の日」。
3カ月間の戦闘で約20万人が亡くなったとされる沖縄戦から73年、今も多くの遺骨が眠るガマの中で遺骨を探し続ける人がいる。
「“声なき叫び”はこの手で拾い上げたものにしか聞こえない。ならばこの叫びを伝える人になろう」。
自らを「ガマフヤー」と呼ぶ具志堅隆松さん(64)は、36年前から沖縄戦で亡くなった人の遺骨収集を続けている。「ガマ」とは自然にできた洞窟のことで、ガマフヤーとは沖縄言葉で「ガマを掘る人」という意味だ。
太平洋戦争末期、県民の4人に1人が亡くなったとされる沖縄戦で兵士や住民が逃げ込み身を隠したガマ。手榴弾での自決や、米軍からの砲撃や火炎放射器で焼かれるなどして、多くの人が命を落とした。ガマの中や周辺には今もたくさんの遺骨が眠り、73年の月日が過ぎようとしている。
金属音が知らせる
73年前の爪痕
具志堅さんの案内で沖縄本島南部の糸満市に向かった。ここは軍隊と民間人が入り交じり最期を迎えた場所だ。
海岸の隆起した台地が東西に走り、北側は崖になりジャングルとなっている。平地ではニンジンやラッキョウが栽培され、農家の人が収穫に追われていた。のどかな風景からは、ここが多くの命が失われた戦場だったことを想像するのは難しい。
だが、畑からアダンや灌木が茂る藪をかき分け崖下に入ると景色は一変する。灰色の珊瑚礁でできた石灰岩のごつごつした巨岩が壁となって重なり、米軍の猛攻を凌ぐ自然の隠れ家として絶好の地形だったことが分かる。
崖下で金属探知機のスイッチを入れると、いきなりピーピーピーと反応音が鳴り響いた。具志堅さんが数cm掘ると発射痕のある薬莢がたくさん見つかる。まるで73年前の戦場にタイムスリップしたかのようだ。
「これは米軍が使っていた銃から発射されたものです。おそらく、ここからあのガマの中を攻撃したんでしょう」と言いながら、数m先のガマの中に身をかがめて入っていく。
金属反応を調べ、小さな手鍬で泥をのけ、素手で土をかき分ける。ヘッドランプの光を頼りに数mmの破片も見逃すまいとするように。崩れた土や石を払いのけると、錆び付いた日本軍の手榴弾、陶器製ボタン、貝製ボタンがたくさん出てきた。
さらに掘り進めると缶詰、セルロイド製の石けん箱、女性が使う櫛が出てきた。これは住民が使っていたものではない。
「将校クラスの幹部が入っていたガマかもしれない…。するとこの櫛の持ち主の女性は何者か? もしかしたら慰安婦だったかもしれない。戦闘の最後まで女性を連れていたという証言はたくさんある」「兵士や女性は捕虜になったのだろうか? 無事に生きのびられたのか? 生きていてほしいな」と具志堅さん。次々と戦場のリアルな様子が掘り起こされる。
「遺族には時間が無い」
国の責任で家族の元へ
厚生労働省によれば、日本人戦没者の遺骨113万人分が沖縄を含め、グアムやサイパンなどに残されたまま収集されていない。
2016年3月、「戦没者遺骨収集推進法」が成立。2024年度までを集中取り組み期間としたが、少額の予算しかつけられていない。国が積極的に動かないのは「あの戦争への責任を明確にしたくないからだ」と具志堅さんは言う。
「戦時中、戦死公報だけで亡くなったことを知らせ、悲しむことを許さない理不尽を国は遺族に強いました。国の責任で遺族の元に骨を返す。これは最低限やるべきこと。遺族には時間が無い。もう、風前の灯火なんですよ。高齢化して遺族がいなくなる前に探してほしい」。
ガマの中で作業の手を休め、暗闇に目をやり、じっと動かない。「戦争の犠牲者に対する慰霊と償いの行為なんです」と具志堅さん。ガマから出るとペットボトルの水を四方に振りかけ、沖縄戦で亡くなった全ての死者に手向けた。
いつでも元気 2018.6 No.320