差別と偏見に気づいたから 沖縄・基地建設反対の現場で
写真家 森住卓
沖縄県名護市の辺野古や東村高江の基地建設現場で、基地反対の住民の中に作業着姿の男性を見かけるようになったのは2年ほど前。2016年7月、高江の北部訓練場ゲート前に集まった住民に、男性はマイクを握り初めて口を開いた。「私の両親はハンセン病の元患者です」。
男性の名前は奥間政則さん(52)。国家資格の一級土木施工管理技士で、作業着は仕事の誇りだ。奥間さんは続ける。
「沖縄に基地を押し付ける日本政府と、隔離政策でハンセン病患者が差別と偏見に苦しんだ歴史は根が一つです」。奥間さんの父は晩年を過ごしたハンセン病療養施設「沖縄愛楽園」(名護市屋我地島)で、ひと月前に亡くなった。
屋我地島は本部半島の付け根にある。今は橋がかかり自由な往来ができるが、昔は本島から海で切り離され、船がなければ渡れなかった。
愛楽園の片隅には「声なき子供たちの碑」が。ハンセン病の患者は子どもを産むことを許されず、男は断種、女性は妊娠したら堕胎させられた。闇に葬られた子どもの数は不明。らい予防法(1996年廃止)によって犠牲になった小さな命の供養塔だ。
奥間さんの父は10代で発病し愛楽園に入所。その後、奄美大島の「奄美和光園」に移り、そこで知り合った患者の女性と結婚し2人の子どもが生まれた。
奄美和光園の園長がクリスチャンだったため、患者同士の結婚も出産も認められていた。「もし、両親が和光園で結婚していなければ僕は生まれてこなかった」と奥間さん。
奥間さんが7歳の時、両親は社会復帰し那覇市で暮らすように。タクシー運転手の父は毎晩、酒に酔って家族に暴力を振るった。「なぜ、父は酒におぼれたのか?」。その理由を10代の少年が知る由もなかった。
ハンセン病と基地建設
2013年、愛楽園に再入所していた父から「パソコンで打ってくれ」と分厚い原稿を渡された。表紙には「戦に追われた少年の記憶」との文字が。原稿用紙500枚に、父の人生がびっしり綴られていた。
手記の中には「明治の時代、上杉茂憲(第2代沖縄県令)が政府の重税政策に抗議した。昔も今も、日本政府はいかに沖縄を食いつぶせば気が済むのか?」と沖縄への仕打ちを痛烈に批判する箇所も。最後にオール沖縄で基地に反対する翁長知事の誕生を喜び、「新基地が200年も使われるのは長すぎる」と書き込まれていた。
奥間さんは小さい頃から両親がハンセン病だとうすうす気付いていたが、口には出せなかった。ハンセン病をきちんと勉強しようと、2016年に愛楽園の資料館を訪問。職員から、お父さんの証言ではと「沖縄ハンセン病証言集」を見せられた。
名前は伏せられていたが、那覇でタクシー運転手をしていた記述から、すぐに父だと分かった。隠し続けた病気のこと、指が曲がっていることでハンセン病と分かり、会社の同僚から嫌がらせを受けたことが書かれていた。
父が家族に暴力を振るった嫌な記憶がよみがえる。暴力に耐えかねた母が、実家に奥間さんを連れて帰った暗い夜道。仕事を転々とし、いつも酒に酔っていたのは悔しさを紛らわすためだったのか…。涙があふれ大泣きした。
土木屋の誇りにかけて
奥間さんが基地建設反対運動に初めて関わったのは、2015年5月に3万5000人が集まった県民大会。「ハンセン病の差別と偏見で苦しんだ父の生涯と、基地を押しつけられ苦しみ続けている沖縄県民の姿がだぶって見えた」と振り返る。
国や大手企業の発注に応じて仕事をする土木技術者としての葛藤もあったが、基地建設反対の座り込みに参加するように。「土木の専門家として何かしなければ」と、知識を駆使して工事のずさんさを指摘し沖縄防衛局を追及してきた。
父がいた愛楽園の浜から、エメラルドグリーンの海に浮かぶ大きな橋が見える。屋我地島と古宇利島を結ぶ全長1960mの橋は、奥間さんが建設に携わった。「ここの地盤は琉球石灰岩でとても脆く、工事が難しかった」。工事の経験から辺野古の海に注目する。
政府が辺野古新基地を建設中の大浦湾の地盤は、橋の建設現場と同じ琉球石灰岩だ。「人間で言えば骨粗しょう症のようなもの。ここに巨大建設物を造ることは土木業界の常識から外れている」と、記者会見や抗議集会の場で工事の危険性を告発している。
「土木屋の誇りにかけて、戦争のための軍事基地は造らせない」と奥間さん。今日も作業着姿でゲート前に立つ。
いつでも元気 2018.2 No.316