human story
自分をあきらめない
文・新井健治(編集部) 写真・酒井猛
プロのギタリスト、湯上輝彦さん(41)は6年前、脳出血の後遺症で右半身麻痺になりました。
「もう一度、ギターを弾きたい」―。
夢を後押しした民医連職員とともに、左手一本で再びライブの舞台に立ちました。
それは念願のメジャーデビューを果たし、全国ツアーも始めた矢先のこと。「路上で突然、右腕の感覚が無くなった。『おかしい』と思った瞬間、右足から崩れ落ちていた」と湯上さん。過労からくる脳出血でした。
救急車の搬送先が、たまたま民医連の立川相互病院(東京都立川市)に。一時は危篤に陥り、一カ月間は意識がもうろうとした状態。一命こそ取り留めたものの、右半身麻痺と言語障害が残りました。
「もう、二度と弾けないのか…」。13歳からギター一筋で生きてきた湯上さんは目の前が真っ暗に。ベッドの上で泣いてばかりいました。
見舞いに来る友人に「もう一度、弾きたい」と訴えましたが、「できる」と言ってくれる人はいませんでした。自分の気持ちを抑え込み「あきらめるしかない」と言い聞かせていました。
入院の半年後、右半身のリハビリで作業療法士の長瀬由美子さん(東京・健生会ふれあい相互病院)と出会います。今後の目標を聞かれ、半ばあきらめながらも「やっぱりギターを弾きたい」とつぶやくと長瀬さんから意外な言葉が。
「うん、分かったよ」─。
運命が変わった瞬間でした。
思い出した13歳の原点
「初めて肯定する言葉を聞くことができた。その時です。自分の中で何かがはじけた」と湯上さん。弾きたい、弾きたいと言いながら、何一つ努力していないじゃないか。自分で自分のことをあきらめていただけじゃないか。
その日から、懸命なリハビリが始まります。まず初めは立つことから。次に重いギターを抱えて、バランスを保つこと。最初は1分ももちませんでしたが、次第に5分、10分と時間を伸ばしました。
右利きの人は通常、ギターの弦を左手の指で押さえ右手のピックで弾きます。湯上さんは左の指で弦を押さえながら叩き付ける「タッピング奏法」を使い、左手一本で演奏します。
ようやく1曲が弾けるようになったのは、再びギターを握ってから1年後。最初に人前で弾いたのは、同じリハビリ患者が入院する病棟でした。
涙を流しながら、演奏に聴き入る病棟の患者さん。その姿に湯上さんは忘れていた13歳の原点を思い出します。
「僕がギターを始めたのは、聞いた人に笑顔になってほしいから。それがいつの間にか、『かっこよくなりたい』『有名になりたい』に変わっていた」。
死から物事を考える
障害を負ってから、人生観は180度変わりました。6年前まではいつも前を向き、夢の実現に走り続けてきました。生死の境をさまよった経験から「常に死から物事を考えるようになった」と言います。
今日が最後の演奏かもしれない、この人に会うのはこれが最後かもしれない。そう思えば全てのことが大切にみえてきます。ライブでも音の一つ一つに願いを込めます。「最後まであきらめないことの大切さを伝えたい」。
長瀬さんは、そんな湯上さんをバックアップ。病院が主催する立川健康まつり、全日本民医連の神経・リハビリテーション研究会など演奏の舞台を次々に用意。「患者さんの社会復帰を支援するのは当たり前のこと」と言います。
こうした活動が目に止まり、NHKの「ハートネットTV」やラジオに出演。中学校の道徳の講師や、東京都の人権啓発イベントに招かれるなど、活躍の場が次々に広がっています。
共にライブをつくる
湯上さんは今も週に一回、長瀬さんのもとでリハビリに励みます。「練習量が増えて、筋肉に疲れがたまっているね」と長瀬さん。この日は10日後に迫ったライブのため、筋肉の緊張をほぐすなど体を入念にメンテナンス。
長瀬さんは作業療法士26年目のベテラン。湯上さんが演奏を続けられるように、腹筋を強化したり、硬直した身体をほぐすストレッチを教えています。一人のファンとして、ライブの応援に駆けつけることも。
最初は1曲だけでくたくたになっていた湯上さんですが、今は10曲でも弾けるように。ライブの最中、脳の指令が効かない右半身は硬直しっぱなし。終われば強烈な痛みが襲います。
夢は2020年の東京パラリンピック開会式で、オープニングを飾ること。「障害を負って、改めて音楽を奏でられる幸せを感じた。痛くても、僕、笑っているんです」。
いつでも元気 2018.1 No.315
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