九条に込めた思い 第3回
世界平和をめざして
憲法調査会会長の高柳賢三は、再度マッカーサーに手紙を送りました。当時、憲法調査会には2つの意見がありました。
1つは、「幣原首相が戦争の放棄や戦力の不保持について述べたのは、日本の将来の問題として一般的に取り上げたに過ぎず、法文化するように述べたのではない」という意見。もう1つは「幣原が、このような考えを法文化するようマッカーサーに進言した」という意見だと説明したのち、「貴下だけが真相を語ることができます」と書き、こう質問しています。
「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文を入れるように提案しましたか。それとも、首相は、このような考えを単に日本の将来の政策として貴下に伝え、貴下が日本政府に対して、このような考えを憲法に入れるよう勧告されたのですか」。(1958年12月10日)
「提案は幣原」
この単刀直入な質問に対して、マッカーサーの回答も明快です。
「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです。首相は、わたくしの職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対してわたくしがどんな態度をとるか不安であったので、憲法に関しておそるおそるわたくしに改憲の申し込みをしたと言っておられました。
わたくしは、首相の提案に驚きましたが、首相にわたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安堵の表情を示され、わたくしを感動させました」。
(1958年12月15日)
このやりとりの文書は、貴重な証拠資料と言えます。憲法九条の成立史研究にとって、そして憲法九条の捉え方にとっても意義深いものです。
高柳は1964年、憲法調査会に最終報告書を提出。その前年に、報告書の内容を『天皇・憲法第九條』として出版しています。
体験が決心につながる
では幣原自身は、憲法成立過程をどのように語っていたのでしょうか。
幣原が亡くなる10日前の1951年3月10日、側近である平野三郎氏が聴き取った内容が、憲法調査会事務局の文書(1964年2月)として残っています。この聴き取りから、幣原が世界平和を目指してさまざまな思いを巡らせていたことが想像できます。
「…軍縮を可能にする方法があるとすれば1つだけ道がある。それは世界が一斉に一切の軍備を廃止することである。一、二、三の掛け声もろとも凡ての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。もちろん不可能である。それが不可能なら不可能なのだ。
ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ、もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら―。
最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。(略)
しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみてもこれは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。
何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた」。
この考えに達した幣原は1946年1月24日のマッカーサーとの会談で、「戦力不保持」の条文を盛り込むことを進言した、と語っています。
「永久平和はわれわれの使命」
私は幣原の役割に注目してきましたが、九条を生み出したものは、幣原の経国の志だけではありませんでした。マッカーサーのサポート、さらには国内外の平和思想やアメリカ・フランスでの戦争違法化運動、不戦条約や国連憲章、そして原爆と敗戦のなかで国民の厭戦と平和への渇望と希求が、九条を生み出す土壌であったと言えるでしょう。
いま、その九条が危機にあります。九条は日本の平和だけではなく世界の平和を求めるものであることは、憲法前文を読めばお分かりいただけるでしょう。日本国憲法はまさしく積極的平和主義であり、この精神を世界に広げることこそが憲法の理念です。
私は「九条の精神をもつ地球憲章を創りあげよう」と訴え、志を同じくする方々と会を立ち上げて活動しています。ドイツの哲学者・カントは、著書『永久平和のために』のなかで「永久平和は空疎な理想ではなく、われわれに課せられた使命である」と述べました。まずは国内で九条を根付かせる運動を強めていきたいと思っています。
(おわり)
参考資料
雑誌『世界』(2016年5月号)
「憲法九条と幣原喜重郎」
鉄筆文庫『日本国憲法』
いつでも元気 2017.9 No.311