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いつでも元気

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九条に込めた思い 第2回

見つかった新資料

 政府自民党は2012年に「自民党改憲草案」を発表。さらに今年、憲法施行70年にあたる5月3日、安倍首相は2020年までに九条を改憲する強い意気込みを語りました。
 時はさかのぼって1955年。自主憲法を制定することを党是として自由民主党が立党します。翌年には岸信介が中心となって、憲法調査会を設置。その狙いは「憲法の成立過程を精査し、日本国憲法が押しつけであったことを明らかにすること」であり、自主憲法で軍備を増強することを目論んでいました。57年、岸が首相となり、憲法調査会は動き出します。
 憲法調査会の会長は英米法学者の高柳賢三が務めました。「改憲のための調査会はいやだ」と何人もの候補が辞退する中、「憲法制定の過程を精査したい」との思いだったと、高柳はのちに語っています。

「幣原から言い出したこと」

 九条の成立は、前号で触れた1946年1月24日に行われたマッカーサーと当時の首相・幣原喜重郎の会談が大きな起点となったと言えるでしょう。この会談は通訳も同席せず2人だけで行われたため、どのような内容だったのかは分かっていませんでした。
 ただ、5年後の1951年5月に、マッカーサーがアメリカの上院軍事外交合同委員会で「それ(戦争の放棄と軍備の不保持)は幣原から言い出したことだ」と証言しています。
 憲法調査会会長の高柳は、この発言についてマッカーサーに詳しく文書で問い合わせました。私が昨年見つけたのは、このやり取りの書簡です。それは、国会図書館の憲政資料室にありました。

世界の憲法の模範として

 高柳は、憲法の成立過程の調査のために1958年の暮れにアメリカを訪れ、マッカーサーと会うことを強く望みました。しかしアメリカ側は「改憲のための調査会なのではないか」という疑念を抱き、高柳からの申し出に躊躇していました。
 そこで高柳はマッカーサーの側近であるホイットニー准将に手紙を出し、訪米の真意を伝え、理解を求めました。
 高柳はホイットニーを通しての手紙で3点((1)占領統治のあり方、(2)天皇制問題、(3)第九条問題)について質問しました。
 そのうち、第九条についての質問の全文は次の通りです。
 「多くの議論が行われている第九条については、私は、マッカーサー元帥も幣原男爵も、日本の基本政策という観点からのみならず、世界全体に実現すべき将来の事態という観点から考えていたものと思う。
 日本国憲法第九条は、世界各国の将来の憲法の模範となるべきものであった。さもなければ、人類は、原子力時代において死滅してしまうかも知れない。わたくしは、ロスアンゼルスにおける元帥の雄弁な演説に大いに感動し、元帥が日本政府に対して本条を憲法に入れるように勧めたとき、元帥の心中には他の考慮もあったかもしれないが、これが元帥の支配的な考えであったと思うようになった。わたくしの印象が誤っていないかどうかを元帥にお尋ねしたいのです」。

(1958年12月1日付)

 この手紙に対して、マッカーサーは次のように返答しています。
 「貴下の印象は正しいものであります。第九条のいかなる規定も、国の安全を保持するのに必要なすべての措置をとることを妨げるものではありません。
 わたくしは、このことを憲法制定の当時述べましたが、その後(中略)自衛隊を設けるよう勧告いたしました。本条は専ら外国への侵略を対象としたものであって、世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原男爵の先見の明とステイツマンシップ(経国の才)と英智の記念塔として、永存することでありましょう(下線部分の英文:It will stand everlastingly as a monument to the foresight, the statesmanship and the wisdom of Prime Minister Shidehara.)」。

(1958年12月5日付)

(※訳は調査会。男爵の原文は首相)

条文を入れようとしたのは

 このやりとりから、幣原の平和への願いと志を、マッカーサーがいかに高く評価していたかがお分かりになると思います。同時に、2人の間で、戦力の放棄についての考え方に違いがあったこともうかがえます。
 マッカーサーからの回答を受け取った高柳には「憲法に戦争と武力の保持を禁止する条文を入れようとしたのは、マッカーサーではないのか」との疑問が残り、再度、質問の手紙を出すのです。(つづく)


参考資料
雑誌『世界』(2016年5月号)
「憲法九条と幣原喜重郎」
鉄筆文庫『日本国憲法』

いつでも元気 2017.8 No.310