6年目の福島IV 子どもたちは今
フォトジャーナリスト 豊田直巳
2011年4月22日、政府は飯舘村全域を「計画的避難区域」に指定した。その2日前、全村避難に備え、村の草野小学校、飯樋小学校、臼石小学校の3校と飯舘中学校の合同入学式が村内で行われた。村の放射能汚染は明らか。既に自主避難していた人々から村内での入学式に批判の声も上がった。
それでも晴れ着や真新しい制服に身を包んだ子どもたちは、村内で最初の、そして最後となる登校に笑顔だった。避難指示決定の前日まで、「村の中で生活しても大丈夫です」と話す“専門家”の講演が繰り返された。たとえ子どもたちが被ばくしていても、親は責められない。
あれから6年。入学式で出会った1年生も今では6年生になり、村に隣接する川俣町のプレハブ仮設校舎に通っていた。あの日と同じように草野小、飯樋小、臼石小の児童として。
仮設校舎の門には3校の表札が下がっている。体操着のジャージは各校によって色が異なり、胸の名札にはそれぞれの校名が入っているが、「いいたてっ子」として区別なく同じ教室に机を並べている。3月には卒業式を迎え、そして中学へと羽ばたく。
雨漏りもする仮設校舎
「先日の学習発表会で、6年生は『僕たちの母校はこの仮設校舎』」と言いました。避難1年目は川俣中学校内の仮設教室で授業を受け、2年生からずっとこの校舎で過ごしているから、ここが母校なんです」と話す大内雅之校長。
校長室の頭上、プレハブの2階から子どもたちが駆け回る足音が響く。校長と目が合うと「実は雨漏りもするんです」と笑いながら、「でも、そんなことは大したことじゃない。子どもたちがこの校舎で何を学び、どんな経験をしたかが大切なんです」。
学校の玄関には「『チーム飯舘』+αの心で」と書いた大きな横断幕が掲げられている。「草野も飯樋も臼石も一緒に、飯舘の思いをみんなで育もうという意志表示です」と大内校長。
一方で、村に「戻りたい」と願う村民への配慮も欠かせない。「学ぶ場所は同じでも、学校が3つあるのが現実。各校の校歌も大事にするし、各校に伝わっていた伝統芸能も子どもたちは勉強しなくちゃいけない」と校長。4年生の「総合的な学習」では、各校ごとに田植え踊りや獅子舞、宝財踊りを学んだ。
こうした気配りの成果もあってか、飯舘村の小中学生のうち、仮設校舎に通学する生徒の割合は54%と高かった。避難12市町村の平均は17%だ(2015年、福島県教育委員会調べ)。全村避難にも関わらず、生徒の半数以上が避難先からスクールバスなどで長時間の通学を続けてきた。
学校再開が招く離散
ところが、避難指示解除が具体化するにつれ、児童の保護者の気持ちは大きく揺れている。村が村内での学校再開を決めた昨年9月には、小中学生の通学率は37%に落ち込んだ。
現在、仮設の小学校には108人が通うが、4月の新年度には51人に半減。卒業生32人に対して新入生は2人。加えて20人以上が避難先の学校に転校する。そして、学校が村内に戻る2018年度には、「全校で20人に満たないのではないか」(大内校長)と予測する。
飯舘村は3月31日の避難指示解除に合わせ、4月から帰村を始める。当初は学校も村内に戻そうと考えていたが、「なぜ、待てないのか」と保護者が反発、村は村内での再開を1年間延期した。避難指示が解除されても、大半の親たちは村に戻るつもりはないからだ。
学校の再開を「復興」の足がかりにしたい行政と、「戻るのは時期尚早」という住民との乖離は飯舘村に限らない。
飯舘村に近い葛尾村は、昨年6月に避難指示が解除されたものの、帰村者はわずか99人(7%)。同村の親へのアンケートでも幼児から中学1年生まで全129人中、村内の学校に通わせたいという親の子どもはわずか5人。同村は今年4月に予定していた村内での学校再開を延期した。学校の再開が、村人の離散につながっている。
いつでも元気 2017.4 No.306