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いつでも元気

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母の遺言 沖縄戦の証言 写真家 森住 卓

 米軍海兵隊が使う「オスプレイ」は、頻繁に墜落事故を起こす危険な軍用機だ。沖縄県北部の東村高江地区では、県民の反対を無視しオスプレイが発着する新基地建設がすすめられている。基地建設に反対してゲート前に座り込む県民の中に、砂川弥恵さん(72)の姿が。砂川さんは週2回、うるま市から車で1時間半かけてやって来る。「なぜ座り込むのか?」の問いに、彼女は「母の残した『遺言』が、私を高江や辺野古に通わせている」と答える。

ゲート前で座り込む砂川弥恵さん

ゲート前で座り込む砂川弥恵さん

 

遺品

 1989年、沖縄戦を生き抜いた砂川さんの母・キクエさんが他界した。キクエさんは戦争で心臓を患い、後遺症に苦しみながら、女手一つで弥恵さんを育てた。遺品を整理中、「母の遺言──戦争体験記」と鉛筆で書かれた分厚い茶封筒を発見した。
 手記の冒頭には、「語り継がねば、生き証人としての使命感で筆を取る」「戦争の悲惨さを伝える義務があると感じ、2度と戦争はあってはならない、起こしてはならない。これを母の遺言とする」と書いてある。この遺書を書き終えた日を「私の終戦記念日」だと記している。
 キクエさんの「遺言」からは何度も死線を乗り越えてきた人間だからこそ、子や後世に伝えなければという強い意志と、平和への断固とした願いを読みとることができる。「使命」をやり遂げたキクエさんは、73歳で亡くなった。

地図

遺言の語る沖縄戦

 沖縄戦は1945年3月26日から6月23日まで。わずか2カ月間で戦没者総数は20万人、そのうち民間の犠牲者は9万4000人とされ、県民の4人に1人が犠牲になった。キクエさんの「遺言」は、沖縄戦が始まる約1年前から始まる。

■キクエさんの手記と、弥恵さんの話を森住氏がまとめたものです。

沖縄戦前

 青年学校の教師をしていた夫・仁里と結婚後、首里城近くにある夫の実家の近くで暮らすことになった。1944年2月8日、弥恵が生まれた。
 同年10月10日、那覇大空襲のあと、実家が日本軍に慰安所として没収されてしまった。追い出された母は私たち家族と同居することになった。
 戦況が悪化の一途を辿り、私たち一家は疎開することを決めた。しかし、すでに沖縄近海は米軍の潜水艦が出没し、安全な海ではなかった。この年の8月には、学童疎開船対馬丸の悲劇も起きている()。軍は対馬丸事件などを極秘扱いし、情報統制を敷いたが、巷には噂として伝わっていた。
 私たち家族は「船の撃沈で一家全滅」ということがないよう、二手に分かれ疎開することにした。まず台湾にいる義弟を頼って、長男(5歳)を親戚とともに避難させた。この時、弟の仁志(3歳)もいっしょに避難させる予定だったが、乗船のどさくさに紛れて夫がとっさに船から連れ出してしまった。3歳の幼子を両親と引き離すのを不憫に思ったのだろう。
 この時はまだ、沖縄が激戦地になろうとは私たちも考えていなかった。夫は軍の命令で青年学校の生徒を引率し陣地構築をさせられていた。そのため、近所の人たちが避難しても、軍からの解散命令が出るまで私たち家族は疎開できなかった。

※学童疎開船「対馬丸」については、本誌2015年6月号に掲載してます

避難

 1945年、米軍は沖縄に矛先を向けてきた。空襲警報のサイレンが鳴ると夫は家族を防空壕に避難させるより先に、学校にある重要書類を取りに走った。残された私と2人の子どもの避難は、自宅に下宿していた青年学校の生徒が手伝ってくれた。あの青年たちは戦争を生き抜いたのかどうかわからない。
 サイレンが鳴ると、1歳にもならない弥恵が這い這いしながら子供用の防空頭巾とおぶい紐を持って、私のところに来ることが不思議だった。
 4月18日、沖縄県立第一中学校が爆撃され、近くの首里城が焼け落ちた。軍から解散命令が出たのはその直後。すでに近所の人たちは避難したあとだった。
母と夫(33歳)、私(29歳)、仁志、弥恵のほか、親戚など14人で南部に逃げることになった。
 砲弾が降り注ぐなか、幼子を連れた一団が歩くのは危険極まりない。避難した壕には、次々と負傷兵が運び込まれてきた。2?3日すると壕の中は負傷兵でいっぱいになり、住民の居場所がなくなった。負傷兵のなかに沖縄出身の若い兵士がいた。「お母さん、お母さん」と呼びつつ息を引き取っていった。「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいった兵士は1人もいなかった。

地獄

 壕に隠れていると日本兵が入ってきて「軍が使うから」と住民を追い出した。日本軍は自分たちを守らないことを身に染みて感じた夫は、いったん壕を見つけると家族を置いて次に避難できる壕を探しに出た。夜になると、一族14人は手を繋ぎながら、夫が見つけた壕に移り隠れることを何度も繰り返した。
 真壁村新垣(現糸満市)付近を逃げていたとき、叔母が砲弾の破片を受け失明、その後直撃を受け即死した。叔父一家は砲弾の直撃で全滅、肉片が周辺に散らばっていた。
 食糧も無くなり、夜の暗がりで畑からイモを盗んでかじった。母乳が出なくなったので、弥恵にはサトウキビを噛んで汁を口に溜め、母乳代わりに口移しで飲ませた。
 逃げている途中で目にしたものは、この世のものとは思えない地獄だった。ゴム毬のように膨れ上がった死体にすがりつく子ども、ウジの湧いている母親の乳房にかじりつき死んだ赤ん坊、黒く焼けた木にぶら下がる内臓、もぎ取られた手足がそこらに散乱していた。
 暗い壕の中で座っていると、足下からウジが上ってきた。明るくなって見ると死体が横に転がっていた。米軍はすぐ近くまで迫っていた。

肉親の死

 6月17日、新垣で爆撃に遭い夫が腕、母は両足に重傷を負い動けなくなった。仁志は頭に砲弾の破片を受けていた。私と弥恵も足に重傷を負っていた。夫は「子どもたちをよろしく」と言い残して、息を引き取った。3日後、仁志も亡くなった。遺体は埋めることもできなかった。
 焼け残った空き家を見つけ、重傷の母を運び込み一息ついたその直後、爆撃を受け火の手が上がった。両足を負傷していた母は「あんたたちは早く逃げなさい」と言った。呆然としていたら「あんたは弥恵を殺す気か」と叱責した。母の言葉で我に返り、弥恵を抱えて這って逃げ出した。母は空き家とともに焼け死んだ。
 夫、次男、母と失い、乳飲み子を抱え、生きる望みを絶たれ死ぬことしか考えられなくなっていた。自暴自棄になった私は戦車の砲弾が飛んでくるのも構わず、米軍に向かっていった。不思議と弾は当たらなかった。義妹の春が砲弾飛び交うなかを、近くの壕に連れ戻してくれた。その壕も人で溢れ返り、入口近くに身を潜めることしかできなかった。
 しばらく身を潜めていると迫撃砲が直撃、壕はあっけなく崩れた。中にいる人たちは生き埋めになったが、入口にいた私と弥恵、春は這い出すことができた。その直後、米軍に捕まった。

捕虜、そして戦後

 「捕虜となれば銃殺される」と思っていたが、米軍は負傷した住民をトラックに乗せ、野戦病院のテントに連れて行った。弥恵もそこで治療を受けた。弥恵の右ふくらはぎは、肉がそぎ取られ骨が見えていた。米軍の医者は足を切断するつもりだったが、「切断はしないで」と懇願し、何とか娘の右足を守ることができた。
 捕虜になる直前、私もけがで40度以上の熱を出していたが、憎んでいたはずの米軍の手当てで助けられた。「鬼畜米英」と教えられていたことが、嘘だったと気づき混乱した。
 収容所を転々とし、解放されたのは宜野座村の収容所だった。結婚当初、尋常小学校と青年学校で教師をしていた夫の知り合いのつてで、ヤギ小屋を借りて住むことができた。
 少し暮らしが落ち着いた頃から、弥恵をおぶって表通りに立つようになった。戦場で亡くした仁志を探していたのだ。あり得ないと思いつつ、仁志がいつか「母ちゃん」と抱きついてくるんじゃないかと、祈りつつ毎日路傍に立ち続けた。

 

母に背中を押されて

 10年ほど前、弥恵さんは東村に友人と畑を借り、農作業を始めた。畑に通う途中で辺野古のキャンプシュワブ前を通り過ぎる。そこでは基地建設に反対する人たちが座り込んでいた。何回か素通りしているうちに「あんた、そのままでいいの?」と母が言っているような気がして、母の遺言を思い出した。それから高江や辺野古に座り込むようになった。
 弥恵さんは「母の遺書を見つけなければ、座り込みに参加していなかったと思う。母が背中を押してくれたんです」と、話す。
 「遺言」の最後には「生きているのではなく、生かされている」と記されていた。この言葉は、沖縄戦で犠牲になったすべての命に捧げられたのだと思う。

 何度悲劇を繰り返すのか。4月28日、米軍属による女性殺人事件が起きた。その抗議集会で、マイクの前でうつむいていた男が顔を上げた途端、大声で泣き出した。他の参加者も目頭を押さえていた。一人の死の悲しみと怒りを、これほど強く共有したシーンを今まで見たことがない。沖縄の抱える歴史的苦難を、彼らの涙が物語っている。その怒りは本土の無関心に突き付けられているのだ。

いつでも元気 2016.7 No.297