特集1 ベトナム・キューバ・日本をつなぐ 第7回キューバ連帯アジア太平洋地域大会報告 全日本民医連副会長・長瀬文雄
かつてベトナムは南北に分断され、アメリカの進攻によって全土が戦場となりました。そんなベトナム戦争終結から四〇年の今年、首都ハノイでおこなわれた「第七回キューバ連帯アジア太平洋地域大会」に全日本民医連が招待を受けました。
今もなお戦争の傷跡を残しながらも成長を遂げたベトナム、 貧しくても医療と教育に力を注ぐキューバ、そして戦後七〇年目の日本。三カ国がつながった会議の様子とベトナムの今を伝えます。
九月八日~一二日、ベトナム・ハノイで「第七回キューバ連帯アジア太平洋地域大会」が開催され、全日本民医連の増田剛副会長(埼玉協同病院院長)、医療制度研究会の本田宏副理事長(元済生会栗橋病院院長補佐)らといっしょに参加してきました。
集会にはキューバ諸国民友好協会と、インドやニュージーランドなど一七のアジア・太平洋の国々から二二〇人が参加し、日本からは民医連と日本キューバ友好協会、ピースボートが参加しました。民医連の参加は今回が初めてです。
貧しいけれど豊かなキューバ
「『国にはもう市民を助けるために使うお金はないのだ』と厚顔にも言う人がいる。だが、ヨーロッパが破壊しつくされフランスが解放されたあのころと比べたら、途方もない富が生み出されているというのに、社会の基盤を維持するお金がないというのだ。それはお金の力が強くなりすぎたからとしか考えられない。かつて貧富の差がこれほど拡がったことはなく、金を求める競争がこれほど奨励されたことはない」。
これはフランスのレジスタンスの闘士だったステファン・エセルが二〇一一年に著し、ベストセラーとなった『怒れ! 憤れ!』の一節です。まさに新自由主義が闊歩する今の日本、今の世界を表したものと言えます。
これとは対照的なのが一九五九年、アメリカに操られたバチスタ政権を倒し、「ただ一人の人間の命は、地球上で一番お金持ちの全財産より一〇〇万倍の価値がある」(チェ・ゲバラ)との価値観のもと、キューバ憲法五〇条で医療費を、五一条で教育費を「生涯無料」とするキューバ共和国の生き方です。
国民一人当たりのGDPは日本やアメリカの一〇分の一という貧しい国ながら、医療や教育、防災、国際連帯に力を注ぎ、“貧しいけれど豊かな国”と世界中から注目を集める国です(『元気』二〇一五年6月号参照)。
「連帯」がキーワードに
集会では戦争、貧困の根絶、核廃絶や環境問題、人権原則、アメリカとの国交回復後のキューバの行方、国際連帯をどう強めていくのかなどをテーマに議論がおこなわれました。
参加者のほとんどが各国のキューバ友好協会からの参加で、キューバとの連帯をどう強めるのかが主題となり、具体的なテーマで議論したいという私たちが抱いていた問題意識とは少し離れていました。
集会の最後に私たち民医連の発言の機会が与えられ、増田副会長が英語でスピーチしました。増田副会長は民医連はどんな組織で何をめざしているのか、平和・医療・人権をめぐる日本の現状と課題、五回のキューバ医療視察を通して感じたこと、市場原理をのりこえる国際連帯の必要性について述べました。会場には発言の英訳原稿、民医連紹介パンフレット、「全日本民医連七〇周年決議」の三点を配布しました。
発言を受けてフィリピンやマレーシア、スリランカの代表から「自国にも住民の権利擁護のために活動する医療組織があるので、ぜひ交流してほしい」との要望があったり、交流を通じて韓国友好協会の方と私たちに共通の友人がいることなども確認できました。会議全体から見るとやや異色の発言ではありましたが、民医連への関心を高める良い機会になりました。
ベトナムという国
開催国となったベトナムは今年、南部解放四〇周年に当たります。私たちの世代はベトナム戦争に強い思い入れがあります。アジアの小国がアメリカの侵略を打ち破ったベトナム戦争。あれから四〇年、ベトナムは戦争の傷跡が今も残る中、果敢に新たな国づくりに励んでいます。集会後はそんなベトナムという国を視察してきました。
街には聞きしに勝るバイク(圧倒的にホンダ!)があふれ、活気に満ちていました。私が特に印象に残ったのは、ホーチミン(旧サイゴン)にある戦争証跡博物館でした。枯葉剤による被害をはじめ、侵略したものがいかに残虐な行為をしたのか、戦争とはいかに無残なものか、見るものの目をくぎづけにしました。若い欧米人も多く、皆食い入るように見入っていたのが印象的でした。
博物館の陳列の最初に出会ったのが、戦争に反対しベトナム人民連帯を掲げたアカハタや新婦人新聞、民青同盟のポスターなど、日本人民のたたかいの記録でした。安倍政権による安保法制(戦争法)が強行されようとし、国民的な反撃の真っ最中の時期だっただけに、再び戦争を繰り返させないとの決意を胸に抱いた時間でした。
(写真・編集部)
真実と意志を伝える 戦跡をたずねて
日本が戦後七〇年を迎えた今年、ベトナムでは、一九六〇〜七五年まで続いたベトナム戦争終戦から四〇年を迎えました。ベトナムは四〇年前の戦争をどう伝えているのでしょうか。第七回キューバ連帯アジア太平洋地域大会の終了後、ホーチミン市内にある「戦争証跡博物館」と、ゲリラ戦の舞台となり長大な地下トンネルのあるクチを巡りました。
(文・写真/井口誠二記者)
ベトナムのホーチミン市は活気に溢れていました。フランス風の歴史ある建築物と近代的なビルが立ち並び、整備された車道をバイクが埋め尽くし、市場には陽気な声が響いていました。観光客も多く、歩道にはさまざまな人種が見てとれます。その光景からは、かつて悲惨な戦争があったことは想像できません。
ベトナム戦争はベトナムを南北に分断し、南を資本主義勢力、北を社会主義勢力が支援。冷戦の代理戦争としての側面もありました。アメリカを筆頭に多くの国が軍を派遣し、全体の兵士の死者数は一〇〇万人超、ベトナム人だけで見ると民間人も合わせて推定一六九万もの人が犠牲になったと言われます。
また、米軍が投下した爆弾は第二次世界大戦が五〇〇万トンであったのに対し、ベトナム戦争では一四三〇万トン。北ベトナムに対しては「北爆」と呼ばれる、都市を完全に壊滅させる爆撃をおこないました。そのためベトナム北部の首都ハノイには、ベトナム戦争以前の建物がほとんどありません。
南ベトナムでは、政府や米軍に抵抗するゲリラに対し枯れ葉剤(注)やクラスター爆弾など現在は国際的に使用が禁じられている兵器を次々に投入し、人や環境に甚大な被害を与えました。現在もその被害は続いています。これらの米軍による非人道的な戦略や、米軍・韓国軍がおこなった虐殺行為は世界的に非難されました。
ホーチミン市の中心部にあり、ベトナム戦争に関する写真や資料、遺物が数多く収められている「戦争証跡博物館」をたずねました。
(注)枯れ葉剤
猛毒のダイオキシンを含む混合物。ベトナム戦争ではゲリラの潜む森林を消滅させ、同時に農地を破壊し食料を奪う目的でアメリカ軍が使用。1962年~72年まで、空中から1200~2200万ガロンを散布。ベトナム人400万人が浴びたとされ、膨大な奇形児が生まれた。被害はベトナム帰還兵や輸送中継基地があった沖縄米軍基地の兵士にも及んだ。なお、1969年、国連総会で化学兵器の使用は禁止されている。
真っ先に日本語の展示物
ゲートをくぐるとまず、戦時中に使われていた戦車やヘリがところ狭しと並ぶ中庭が広がります。建物の中に入ると、真っ先に日本語の展示物が。入り口近くには戦時中、日本の平和運動団体などがアメリカの侵略行為に反対し、米軍の撤退とベトナム国民への連帯を訴えたポスターやチラシなどが展示されています。
ベトナム戦争に対する反戦運動は、アメリカをはじめ世界各国でおこなわれました。各国の展示もあるなかで日本の展示が最初に置かれていることに、ベトナムと日本の親密さを感じます。
一方、「沖縄なくしてベトナム戦争は続けることができない」と当時の米軍太平洋地域司令官が発言したように、日本はベトナム戦争に加担しました。返還前だった沖縄は枯れ葉剤の輸送中継基地や実験基地となり、在日米軍基地から飛び立った爆撃機はベトナムに爆弾の雨を降らせました。
また日本の産業界は、軍需品を米軍に売ることで、ベトナム特需と呼ばれる戦争特需で潤いました。反戦活動も盛んにおこなわれる一方、日常の中での「加害」もあったのです。
目を背けたい、背けてはならない
さらに足をすすめると、展示はベトナム戦争に至る経緯を追った資料や、当時使用された本物の武器、戦場や戦地になった村々、破壊された都市の写真が続きます。そこには銃を突き付けられ怯える村人や下半身が吹き飛んだ血まみれの男性、米兵につまみ上げられる上半身だけになった子どもなど、凄惨な写真が数多く展示されています。
今も続く枯れ葉剤の被害を伝える資料も多く展示。日本で有名なベトちゃんドクちゃんをはじめとする多くの奇形児や枯れ果てた森林の写真、奇形になった胎児のホルマリン漬けなど、思わず目を背けたくなる資料が並びます。
しかし、それらは紛れもない戦争の真実です。どんな内容であれ史実から目を背けることは、今ある現実からも目を背けることに繋がります。訪れる人々は沈痛な面持ちになりながらも、展示品を一つひとつ見つめます。
英語や日本語など三カ国語での表記があり、全ての展示品の撮影を許可している博物館からは、より多くの人に戦争の悲惨さを知ってもらいたいという強い意志を感じます。
「抵抗とは、今までの暮らしを続けること」
長大な地下トンネル
南ベトナムでのゲリラ戦の舞台の一つ、クチはホーチミン市中心部から車で二時間弱。かつての戦場は、今や四カ国語(ベトナム語・英語・中国語・日本語)のガイドがある観光地です。ベトナム人ガイドのトラン・ヴァン・クーさんに案内してもらいました。
クチは南ベトナムの反政府ゲリラ(南ベトナム解放戦線)の重要な戦略拠点であり、広大な地下トンネルを利用したゲリラ戦を展開し米軍を最も苦しめた戦場の一つでもあります。
地下トンネルはいくつかのブロックに分かれており、全長は二〇〇キロメートルにも及びます。現在、戦争記念公園として公開されているので、一部のトンネルには誰でも入ることができますが、通路は大人が身をかがめてやっと通れる程度の広さしかありません。しかし、これでも観光のために広げたもので、戦時中はもっと狭かったといいます。
大柄な米兵は入ることができないが、細身のベトナム人はぎりぎり通れる程度の広さで作ったからこそ、トンネルが有効でした。さらに、通路こそ狭いものの、内部には炊事場や学校がある広い空間もあり、近隣の村人たちは地上がナパーム弾で焼き払われる最中、この地下トンネルで生活していました。
そして無数かつ巧妙に作られた出入り口を利用したかく乱戦術や、ジャングル内に数多くのトラップを仕掛け、「ベトコン(ゲリラ)は何処にもいないが、何処にでもいる」と言われるゲリラ戦を展開しました。
多くの破壊と死
世界最強の米軍を相手に、一農民に過ぎないゲリラが一歩も引かなかった、と言えば華々しい戦果のようですが、地域が受けた被害は多大です。
ゲリラと一般人の区別ができなかった米軍は、農村部への無差別攻撃をはじめ枯れ葉剤やナパーム弾により生活圏の森や田畑、村々を破壊しました。さらに米軍・韓国軍は市民・村民に対する略奪・強姦・虐殺をおこないました。
なかには全住民が殺害された村もあります。特に韓国軍の虐殺はベトナム各地でおこなわれ、殺されたベトナム人は数千〜三〇万人と言われています。しかし、韓国政府は未だに虐殺があったことを認めていません。また主に韓国軍がおこなった強姦などにより、数千〜数万の混血児が生まれました。生まれた子どもは「ライダハン(敵軍の子)」と呼ばれ、同じベトナム人によってすら戦後も迫害を受け続けました。
さらに南ベトナムでは、南ベトナム解放戦線や北ベトナム軍による要人テロも頻発し、テロや戦闘に巻き込まれて死亡した一般人は数千人に及びます。当時のベトナムは他国の軍隊とだけではなく、同じ国民、同じ民族同士でも殺し合っていたのです。
遺恨はベトナム戦争終結後も続きます。南北間の対立や、統一政権に不満を持つ国民の排斥が起こり、大量の難民が生まれました。
抵抗をやめなかった人々
どんなに被害を負っても、ベトナムの人々は抵抗をやめませんでした。現地ガイドのクーさんによると、クチでは全ての村民が戦闘員、全ての家が戦闘基地となり、幼い少年少女も銃を持ち戦ったと言います。足りない弾薬は戦闘で奪った砲弾などから手に入れ、それらの破片をトラップに再利用するなど徹底してゲリラ戦を続けました。戦いながらも、村民の側にはいつも農具がありました。戦闘の合間に畑を耕し、時には歌い踊りました。「それまでの生活を続けることそのものが、彼らのもう一つの戦いだった」とクーさんは言います。
生きるために食料が欠かせないという事情はあります。しかしそれ以上に、戦争は命も暮らしも奪う。「抵抗するということは、今までの暮らしを続けること」と、クチの人々は考えたのです。
クーさんは「クチは当時の様子を現在に伝えると同時に、ベトナム人にとって決して抵抗をやめなかった先人たちの意志を感じる場所でもあるのです」と語りました。
経済発展のさなかに
ベトナム戦争は一九七五年、南ベトナムの降伏をもって終戦を迎え、南北ベトナムは統一され、今のベトナム社会主義共和国が誕生しました。その後もカンボジアや中国との戦争がありましたが、現在は終結しています。
現在のベトナムは、経済発展のさなかにあります。もともと農業大国でしたが、近年は工業も伸び、日本企業も多く進出しています。
問題は抱えつつも、大国の侵略を跳ね返した歴史を誇りに、戦争の悲惨さを忘れず、自立した国として歩むベトナム。いま日本に生きる私たちにとって、学ぶべきことが大いにあると感じました。
いつでも元気 2015.12 No.290