特集1 「激流のような火のなかを生きのびた」 ──東京大空襲体験者 早乙女勝元さんに聞く
一九四五年三月一〇日未明に東京下町を襲った東京大空襲。当時一二歳だった作家・早乙女勝元さんは、約一〇万人が亡くなった大空襲を生きのびた一人です。「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区北砂)の館長としても戦争体験の継承に尽力する早乙女さんに、ご自身の体験や、戦後七〇年への思いを聞きました。(聞き手・宮武真希記者)
一九四五年、私は向島(現在の墨田区)に住む学童で、勤労動員として鉄工場で働いていました。近所は「東京があぶない」と聞いて疎開した家が多く、空き家が多かった。わが家は疎開するつてがなかったので、ずっと東京で暮らし、終戦まで一〇〇回ほどの空襲を体験しました。
火の雨のなかを
三月一〇日未明、私は激流のような火の粉をかきわけ、火のないところへ逃げました。火のないところは空からみると黒く見えるために米軍重爆撃機B29の標的になり、たちまち火の壁となりました。右往左往しながら、無我夢中でしたね。
そのうちに地上が白熱状態になり、水分がない体は燃え尽きていきました。私は逃げる途中何度も、防火用水の水を鉄兜ですくって体中にふりかけながら走りました。生きるも死ぬも紙一重という状態でした。
無我夢中で火の雨のなかを逃げのびているときでも、「絶対に焼いてはいけない」と、持っていたものがありました。それが「神風」と書かれた鉢巻きです。当時は「日本は神(天皇)の国。天皇がはじめた戦争だから、この戦争は聖戦だ。したがって天上の神々は見放さず、最後の最後には神風が吹き敵は藻くずとなって消える。お前達は一日も早く神風の一員になれ」と教えられ、私たちは朝の出勤に額にしめていました。
まちも学校も丸焼け、動員で働いていた工場もスクラップで、おおぜいの友だちや近所のおじさんおばさんたちを失いました。
2時間あまりで10万人の死者
東京大空襲には、それまでの空襲とちがう特徴があります。深夜の空襲であること、B29は約三〇〇機という大編隊であったこと、超低空飛行で上空に現れたこと、日本の木造家屋を短時間で延焼させるナパーム性の油脂焼夷弾を集中投下した、という点です。
爆撃の目標は、隅田川を中心とする下町の超人口密集地帯。屈強な男性は兵隊にとられているので、残っているのは女性と子どもが大半でした。約二時間の空襲で一七〇〇トンもの焼夷弾が投下され、東京の下町地区はほぼ全滅。本所区と深川区(現在の墨田区の南半分と江東区)は壊滅状態。死者は一〇万人、一〇一万人が家を失ったとされています。
東京大空襲が起こるまでの戦争の歴史で、こんな短時間で一〇万人もの人命が失われたことはありません。「未曾有の」と言うか、「空前の」と言うか、日本で最初の大量殺戮都市は東京だったと言えるでしょう。
しかし、そのことはあまり知られていませんでした。一九七〇年に私が「東京空襲を記録する会」を呼びかけたことではじめて、東京で一〇万人もの尊い人命が奪われたということが、暗闇から引きずり出されたのです。ではなぜ二五年間、このことが知られなかったのか。いろんな理由があると思いますが、一家全滅の家庭が多かったために告発する者がいなかった、ということも一因ではないかと思います。
指揮官には勲一等が
三月一〇日の大本営発表のなかに、どうしても承服しかねる一節があります。それは「都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は二時三五分其の他は八時頃までに鎮火せり」という一文です。つまり一〇〇万人の罹災者と一〇万人の死者は、「その他」でしかない。
戦中、民間人は民草ともよばれており“雑草ほどの命でしかない”と言わんばかりでした。そしてそれは、戦後の政治にそのまま引き継がれていきます。
わかりやすい例ですと、軍人・軍属には総計約五四兆円もの恩給が出ています。階級によって金額は違いますが、一番階級の高かった大将は年間約八〇〇万円です。それに対して、空襲で両親を亡くしたり、やけどをしたり、戦争孤児になった人に、政府はびた一文出していません。
さらに、爆撃の指揮者であるカーチス・E・ルメイ将軍に、日本は勲一等旭日大綬章を贈っています。一〇万人もの人が死んだっていうのに、被害者たちにはなにもせずにほっておいて、加害者には最高級の勲章をあたえるなんて、どうかしてますよね。あってはならない不条理です。
声なき声を受け継がねば
戦争が終わって四年ほどたったあたりで、日本がまた戦争に向かっているかのような、奇っ怪な事件が起こりました。下山事件、三鷹事件、帝銀事件など、とても日本人が犯人だとは思えないような奇妙な事件が起こったんですね。
そして一九五〇年、朝鮮戦争が勃発します。あのB29が、横田基地や入間基地から朝鮮半島へ向けて飛び立っていきました。爆撃の下がどうなるかくらい、誰でも容易に想像つくわけですよ、戦争が終わってまだ五年しかたっていないんですから。
私も気になって仕方がありませんでした。だって、私はそこから生きのびたわけですからね。それにB29は、アメリカからではなく日本から飛び立っているのですから、自分が他国の戦禍にまったく関係ないとはいえない。何かできることはないかと考えながら、いたたまれぬ日々を送っていたけれど、何も発言するすべがない「声なき声」を受け継いでいかなきゃ、という思いと、「もしかして誰かが読んでくれて、戦後の初心に立ち戻ってくれはせぬか」という思いで自分史を書き、以降六〇数年、休みなしに書き続けました。記録なしには継承できませんからね。
二〇〇三年に設立した東京大空襲・戦災資料センターは、戦争と民間人との関係をかなり詳しい資料を提示して伝達しています。体験を映像でも残そうと、証言集も作成中です。
危険な“戦争への道”
いま、政府はあらたな戦争への道へむかおうとしていますね。「安全」とか「平和」という言葉をちりばめて、それ行けどんどんです。こういう危険な状況を迎えようとは、思いもしませんでした。
一九四〇年の開戦詔書をご存じでしょうか。「これから戦争をはじめる」というこの文書には、なんと「平和」という文字が六回も出てきます。ぜひ一度、読んでみてください。
これからの平和の力になるのは、「戦争になったら民間人はどんな犠牲を強いられるのか」ということを知り、学ぶことではないかと思います。「戦争体験を聞いたことがない」「日本国憲法を読んだことがない」という方が、若い人のなかに多いそうです。そういう人たちは、権力者が「この道しかない」と言えばそれを見破るのは容易ではない、と思うのです。よく学び、声を上げること。黙っていてはいけません。
戦争をする国になり、日本に軍隊ができたら、軍隊は国民を守ってくれるでしょうか。
日本の軍事費が一番跳ね上がったのは一九四四年。国家予算の八五・五%を占めました。当時の日本軍は約七二〇万人です。その軍隊が、国民を守ることができたでしょうか。沖縄の地上戦では「日本軍に親を殺された」という証言があるように、軍は国民のためにあるのではない。国家の指令で動くのです。国民を守ってくれるどころか、戦争をするための武装集団ですよ。
国に謝罪と補償を求めて裁判を起こした東京大空襲訴訟原告団が、今年3月に報告集を発行しました。原告団や支援者ら100人を超える手記や、原告団の座談会、証人尋問などの資料を掲載しています。
東京大空襲訴訟は2013年5月に最高裁が棄却。原告団は現在、空襲被害者救済のための援護法制定をめざして活動中です。
報告集についてのお問い合わせは、電話03-3616-5531(東京大空襲訴訟原告団)まで。
いつでも元気 2015.08 No.286