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いつでも元気

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特集1 戦後70年 体験を未来へ

広島研修に参加した高校生平和大使。広島平和記念公園の「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の前で、高校教師の岸本伸三さんが解説する(6月13日)

広島研修に参加した高校生平和大使。広島平和記念公園の「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の前で、高校教師の岸本伸三さんが解説する(6月13日)

 戦後七〇年、戦争体験者は高齢化しています。体験を伝え平和な社会を次世代にバトンタッチするには、どうすればいいのでしょうか。特集1では被爆地・長崎で始まった「高校生平和大使」をはじめ、沖縄、広島、東京の各所から、体験を未来につなぐ試みを伝えます。

被爆者の想いを世界へ

 「核廃絶の想いを世界に届けることが、広島で生まれた私の責務」「武力ではなく、話し合いで平和を築く」─。六月一四日、広島でおこなわれた第一八代高校生平和大使の結団式。壇上の二二人が力強い決意を表明しました。
 平和大使が始まったのは一九九八年。毎年、核兵器廃絶と平和を求める署名を集め、八月にスイス・ジュネーブの国連欧州本部を訪問。軍縮会議に参加して各国の代表に平和を訴えます。今年も八月一六日にスイスに向けて出発します。
 これまで集めた署名は一一七万筆超。今年の署名は八月一一日に集約します。昨年は約一三万筆が集まりました。署名は軍縮会議事務局長らに直接渡し、国連欧州本部に常設展示されています。
 平和大使は毎年公募で選出。今回は被爆七〇年ということから、三五〇人の応募者の中から過去最多の二二人が選ばれました。

平和を守る主体者に成長
高校生平和大使

 長崎選出の小川日菜子さん(一五)は祖母が広島、祖父が長崎で被爆した被爆三世。「七〇年間、被爆者が声を大にして訴え続けたから今の平和がある。四年前に他界した祖父の想いを、私たちが太く大きくして次の世代につなげたい」と言います。

活動は多彩に規模も拡大

 平和大使が始まった一九九八年は、インドとパキスタンが相次いで核実験を実施した年です。核兵器の拡散に危機感を抱いた長崎の市民団体が、国際社会に核廃絶を訴えようと、シンボルとして二人の高校生を選んだことが出発点でした。
 大使を発案した長崎市の元小学校教師、平野伸人さん(六八)は「当時から被爆者は高齢化していて、体験の継承は急務の課題だった。平和集会を開いても若者の姿は少なく、焦りがあった」と振り返ります。若者に興味を持ってもらおうと、風船を飛ばしたり、バンドを呼んでコンサートを開いたりと懸命でした。「でも、全然うけなかった。こんなことをやっても、と頭では分かってはいたが、他に方法が見つからない。暗中模索でした」。
 高校生平和大使も手探りでした。始めて数年は被爆地の二~三人に限定して選出。活動も国連の訪問に限られていましたが、続けるうちに高校生自らのアイデアで規模が拡大、内容も多彩になります。
 二〇〇〇年、第三代高校生平和大使の二人が「もっと多くの高校生を巻き込んだ運動にしたい」と発案したのが「高校生一万人署名活動」です。署名の目標数“一万人”は、当時の長崎県内の高校生の人数。署名が始まったことで、平和大使以外の高校生が参加するとともに、八月だけでなく年間を通して活動するように。大使も被爆地以外に広がり、今年は一六都道府県から選出。東日本大震災後は被災地の岩手と福島からも毎年選ばれています。

歴史の流れの中にいる

 街頭で署名をしていると、さまざまな出会いがあります。時には「高校生に何が分かる」「お前たちは大人に利用されているだけ」など、心ない言葉を浴びせられることも。悔し涙を流しながら必死に勉強する生徒もいます。市民の激励も多く、知らない人が差し入れしたり、面識のない離島の高校生がサイトを見て署名を集めてくれることもあります。学校では経験しない社会とのダイレクトなふれ合いを通し、高校生は平和を守る主体者に成長します。
 「『そうだったのか』と気づきました。若者が平和活動に興味を示さないのは、明るい、暗いといったイメージの問題じゃない。自分が社会の一員として歴史の流れの中にいることを行動で実感できた時、若者は大きく変わる。活動を続ける中で初めて分かりました」と平野さん。

70年の今がスタート

 戦後七〇年、いまだに核兵器はなくならず、世界から紛争も絶えません。悲観的になることもありますが、平和大使の一人、井上つぐみさん(県立広島高校)は違います。「節目の年だからこそ、核兵器廃絶の大きな波を起こし、若い世代に期待している被爆者の想いを代弁したい。今年がスタートです」。
 大使の平和の捉え方は多様です。
宮澤咲帆さん(岩手・盛岡中央高校)は「家族と食事をすること、学校で友人とおしゃべりすること、何気ない日常の連続が平和だと思います」と言います。
 宮澤さんは震災当時、死者・行方不明者が一〇〇〇人以上に及んだ釜石市に住んでいました。自宅は津波で二階まで浸水し、病院で一晩を過ごしました。「津波と原爆は違いますが、昨日まであった笑顔が一瞬で消えてしまうことがどんなことか、学びました。地震は人の手で止められないけれど、核兵器は無くすことができます」と言います。
 鶴蒔かれんさんは福島市にある高校の二年生。「原発事故で、五感で感じることができない放射能の怖さを実感しました。復興は中途半端で風評被害も続いている。福島の現状を世界に発信し、核と人類は共存できないことを訴えたい」と言います。

大使たちのその後

 この一八年間で選ばれた平和大使は一五四人。第五代大使で、二〇〇二年にローマ法王と単独謁見した岡山史興さん(当時・長崎西高校三年)は三〇歳の現在、広報やマーケティングのコンサルティング会社(東京)の代表をしています。
 「高校生のころから、平和運動の硬直化を感じていた。せっかく良い活動でも、表現方法が的外れだと伝わらない。デジタル化社会の中で、効果的なPRの技術を仕事にしたいと思っていました」。
 若者向けに戦後七〇年をテーマにしたウェブサイト「70seeds」を作成。NPO法人「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」のサイトデザインも手がけました。「仕事が忙しくて、平和運動から離れていた時期もありました。でも、大使の経験は私の人生の核になっています」と言います。
 “卒業生”は横のつながりを活かし各地で平和サークルを作って活動。長崎のOB、OGは修学旅行で訪れる中高校生と交流、その中高校生が地元で署名を集めてくれます。

平和の種まき

 政府は安全保障関連法案を無理やり成立させようと、国会の会期を九月まで延長しました。「微力だけど無力じゃない」─。最近、社会的な活動をする若者の間ではやっている言葉があります。その原点は、実は高校生一万人署名活動です。
 二〇〇一年、9・11テロが起こりました。ひとりの高校生が「署名をしたって、こんな事件が起きたじゃないか。署名に何の意味があるのか」と疑問を呈しました。「署名をして、すぐに核兵器がなくなるわけではない。でも…」「小さな活動だが、何かをしないといけない」。話し合いを重ねる中で、誰からともなく想いが言葉になり、出てきたのが「ビリョクだけどムリョクじゃない!」でした。この言葉はその後、平和大使と署名活動のシンボルになりました。
 平和大使を支援する被爆者の山川剛さん(七八)は「戦後七〇年というけれど、六九年や七一年とはどこが違うのか、そこを高校生に考えてほしい。再び戦争をする国になろうとしている今だからこそ、若者の活動は希望です」と期待します。
 平野さんは言います。「平和の種まきをしておけば、政府がいざ、戦争をやろうという時に国民の底力が出るはず。その時こそ『微力だけど無力じゃない』が真実味を持つ」。
(文・新井健治記者/写真・酒井猛)


※高校生平和大使 平和大使をきっかけに、年間を通してさまざまな活動がおこなわれている。署名のほか、途上国に学用品を送る「高校生一万本えんぴつ運動」が2001年、奨学金を送る「高校生アジア子ども基金」が06年にスタート。東日本大震災や国内外の災害被災者、米軍に空爆されたアフガニスタンの支援もおこなう。署名は国内各地のほか、定期的に訪問する韓国、フィリピン、ブラジルからも送られてくる。平和大使はこのほか、アメリカ、ニュージーランド、オランダ、ドイツ、インドなども訪問
し、現地の高校生と交流。長崎では修学旅行に訪れる中高生に講演している。活動は中学、高校の教科書に掲載され、外務省の「ユース非核特使」に選ばれた
http://www.geocities.jp/peacefulworld10000/

※平野伸人さん 1946年生まれ。母親が長崎で被爆した被爆二世。高校生平和大使派遣委員会共同代表。86年に長崎県被爆二世教職員の会を結成(会長)。87年に全国被爆二世教職員の会会長。韓国をはじめ在外被爆者の救援活動もおこなう。98?2006年、全国被爆二世団体連絡協議会会長


学運交に高校生平和大使
第12回全日本民医連学術・運動交流集会で、平野伸人さんと第18代高校生平和大使の柏原由季さん(大阪府立千里高校1年)が講演します。集会2日目の10月10日午前9時から、テーマ別セッション1で。会場はグランキューブ大阪(大阪市北区)です。

いつでも元気 2015.08 No.286