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いつでも元気

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戦後70年 隠された子どもたちの犠牲 対馬丸事件

 一九四四年八月二二日午後一〇時すぎ、沖縄から長崎に向かう学童疎開船「対馬丸」は、アメリカ軍の潜水艦「ボーフィン号」の魚雷攻撃により沈没しました。一七〇〇人あまりの乗船者のうち、生存者はたった二五九人。あのとき何があったのか――。沖縄県那覇市にある対馬丸記念館館長で生存者の髙良政勝さんにお話を伺いました。

対馬丸記念館にある犠牲者の写真。ここにあるのは判明している犠牲者のうち、二割強にすぎない

対馬丸記念館にある犠牲者の写真。ここにあるのは判明している犠牲者のうち、二割強にすぎない

 一九四四年七月七日、日本軍の絶対防衛圏だったサイパン島が玉砕すると、「次は沖縄だ」と言われるようになります。政府から沖縄決戦にそなえ、「沖縄県民一〇万人を県外へ疎開させよ」との命令を受けた県は、小学校の教師たちに学童を疎開させるよう指示します。
 子どもたちは「本土に行ったら雪が見られる。汽車に乗れる」と遠足気分でしたが、保護者は沖縄周辺で多数の船がアメリカ軍の攻撃で沈没していたことを知っており、危険を冒して海を渡ることに難色を示します。教師たちは「自分たちが引率するから」「本土に行けばしっかり勉強ができる」と説得し、八〇〇人ほどの児童が対馬丸に乗船しました。
 「対馬丸の正確な犠牲者数は今もわかっていないんですよ」と髙良さん。
 「お昼から那覇の港に集められて、出発は夕方の六時。太陽が照りつけ日陰のない中で何時間も待たされるので一度家に帰ったらその間に船が出ていたり、友だちの見送りに来た子が『やっぱり自分も』と乗っていったりもした。乗船券なんてなかったから、誰が乗ったかわからない。だから、生存者はわかっても、犠牲者の正確な数は永久にわからないんです」

家族で疎開するも…

 髙良さんは当時四歳で、両親と八人の兄弟とともに、鹿児島にいる長男のもとへ疎開する予定でした。「うちは牛乳屋を営んでいた。早くから疎開を決めていたが、乳牛の買い手が見つからず、ようやく乗れた疎開船が対馬丸だった」。家族一一人のうち、助かったのは四歳の髙良さんと一七歳の姉の千代さんだけでした。
 「当時のことは、断片的にしか覚えていない。とても大きな船で、船内は人でいっぱいだった。体の小さい私は人の間をぬって自由に動き回れるので、いつもはいじめられている兄や姉をからかっていた」と髙良さん。
 「次の記憶はもう波に弄ばれている瞬間だった。いかだなのか木なのかにしがみついて、見渡す限り誰もいない。うねる波とたたかうのが精一杯だった。波がポチャンポチャンと顔にかかって、鼻や目に海水が入って痛い。でも拭こうとすると波にさらわれてしまうから、本能的に手が離せなかった。それがとにかくつらかった。救出された時に、背中を小魚につつかれて骨が見えていたらしいが、それは全然覚えていないんです。
 それとね、あとから話を聞くと、どうやら親父がいっしょだったらしいんですよ。私が救出されたのが沈没から三日後で、四歳の子どもがそんなにひとりでいられるはずもない。おぼれないように、父が後ろから支えてくれていたのかもしれないね」

「誰にも話してはならない」

 対馬丸の沈没は警察や憲兵によって箝口令がしかれました。沖縄に戻った生存者は、対馬丸に乗った子どもの家族から「うちの子はどうしたんだ」と尋ねられても答えられませんでした。
 「長男が祖父母に送った手紙がこれなんですよ」と髙良さんは手紙のコピーを見せてくれました。「御祖父母様」と書かれた手紙の冒頭には、赤鉛筆で㊙と書かれています。対馬丸事件を伝える手紙の最後には、「これまでのことは一行たりとも隣近所の者に知らせてはなりません。極秘です」とあります。
 「当時は検閲が厳しくて、この手紙だと祖父母のもとには届かなかったはず。だけど、兄が沖縄―鹿児島間を行き来していた船員と懇意になって直接届けてくれと頼んだ。だから、住所も祖父母の名前もないこの手紙が、ちゃんと届いたんです」

犠牲になるのは子どもたち

 最後に髙良さんはお孫さんとの写真を見せてくれました。「僕が対馬丸事件を経験したのが四歳一〇六日だった。これは孫が四歳一〇六日を迎えたときに撮ったものなんです」と目を細めます。
 「対馬丸の生存率は学童七%、一般(疎開者)一四%、軍人四八%、船員七二%と言われています。いかに子どもや一般人の犠牲が大きかったか。戦争は子どもだろうがなんだろうが関係ない。ルールがあっても守らない」
 今も世界各地では紛争が起き続けています。「やられたらやりかえす。またやりかえす。これじゃ何も解決しない、武力では何も解決しないですよ。我慢して我慢して、話し合いのテーブルについて、ゆずれるところはゆずらないと。怒りを憎しみに変えて復讐してはならない」と語気を強めます。
 戦後七〇年が経ち、戦争を知らない人がほとんどです。髙良さんは「今、日本はいつか来た道をまっしぐらに行っている感じがする。戦争を知らない人たちには、ここ(対馬丸記念館)やひめゆり平和祈念資料館、広島・長崎の原爆資料館をうんと見てほしい。戦争がどういうものか知ってほしい」と語りました。

文・寺田希望記者/写真・五味明憲

いつでも元気 2015.06 No.284