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いつでも元気

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特集1 戦後70年 「泣き声が耳から離れない」 戦地で出会った「慰安婦」 元従軍看護婦 中里チヨさん

 今年は戦後七〇年にあたります。「戦争を知らない世代」が増えたのも、不戦を誓った日本国憲法第九条の存在があってこそ。ところが安倍政権は、日本をふたたび戦争のできる国にするため憲法改正をねらっています。過去の戦争で日本が犯した過ちについても、“日本軍が性奴隷にした”というのは「言われなき中傷」(「慰安婦」問題について二〇一四年一〇月、安倍首相)と述べるなど、真実を歪めようとしています。
 中里チヨさんは、元従軍看護婦。「日本軍の管理下に慰安婦さんがいた」と証言します。

中里チヨさん 1926年新潟生まれ。元・川崎協同病院(神奈川民医連)看護部長、全日本民医連看護委員。第二次大戦中に従軍看護婦を経験。

中里チヨさん 1926年新潟生まれ。元・川崎協同病院(神奈川民医連)看護部長、全日本民医連看護委員。第二次大戦中に従軍看護婦を経験。

 私が従軍看護婦として、中国の海南島に行ったときに見聞きしたことをお話しします。

18歳で従軍看護婦に

 私は一九四四年三月二五日に看護学校を卒業し、志願して軍属の従軍看護婦になりました。一八歳でした。
 四月一日からは、従軍前の訓練を受けるため、東京の目黒雅叙園にあった海軍第二病院に召集され、「日本の軍隊として恥ずかしくない看護婦になれ」と指導されました。私は日赤の看護婦ではなかったので、丸い赤十字の帽子ではなく、三角巾をかぶり白衣を着ていました。毎日の朝礼では「一、軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ…」と、とても速いスピードで軍人勅諭を暗唱させられました。
 一一月五日朝、まだ夜が明けないうちに、トラック四台に八〇人の看護婦が乗せられ、横須賀港へ行きました。そこから船に乗り、台湾へ。高雄海軍病院で働いたあと、中国・海南島の三亜海軍病院で働きました。ここで慰安婦さんたちと出会ったのです。

夕方になると号令が

 病院に勤務していたとき、驚いたことがありました。それは夕方六時五分前になると「外出員整列五分前!」という号令がかかるのです。すると二〇人くらいの海軍の軍人が集まってくる。ニコニコしながら集まってきて交代で外出するのです。私は不思議に思って、「どこにいくのか」とたずねました。すると「おもしろいところに行くんだ。そのうちわかるから」と言ったきり、具体的なことは何も言いませんでした。
 あとになって、外出は「慰安婦」と呼ばれる女性がいる小屋へ行くためだと知りました。号令をかけて整列させたということは、軍が外出時間を保障し、公認していたということです。日本の軍隊が組織的にそのような形をつくりあげたことを、私は許せません。

1944年12月、前から3列目、右から3人目が中里さん

1944年12月、前から3列目、右から3人目が中里さん

軍が慰安婦の検診をおこなっていた

 あるとき、婦長さんから呼ばれて、「いまから慰安婦の検診をおこなうので、軍医の介助をするように」と言われました。それは婦人科の検診でした。
 彼女たちはトラックに乗ってやってきました。四台に一〇〇人を超す人たちが乗っていました。私の役割は、彼女たちの腕に注射をして、内診をするためのベッドまで連れて行き、消毒をすることでした。病気があるかどうかは、一目みればわかります。淋病だとわかっても、できることは消毒しかありません。痛がってワンワン泣く彼女たちの声は、いまでも私の耳から離れません。
 検診のとき、彼女たちの名札には「兵隊用」「軍属用」「将校用」と書かれていました。「兵隊用」「軍属用」と書かれた名札をつけていたのは、台湾や韓国の女性たちでした。「将校用」と書かれた女性は、日本人なのに韓国名で呼ばれていました。彼女たちは「特殊看護婦」の名で連れてこられ、アパートのようなところに収容されて暮らしていました。私は検診で出会ったひとりと仲良くなり、彼女の部屋に遊びに行ったこともありました。当時の私の月給は九〇円、彼女は二五〇円ほどだと言っていました。
 一九歳だった私は、「慰安婦」と呼ばれる人たちがいること、軍が彼女たちを管理して検診している事実を知り、とてもショックでした。三亜というところは、当時、日本の海軍の司令部があったところですから、海軍・陸軍問わず軍隊が集中していた場所で、慰安所も無数にあったようです。こんなに恥ずかしいことを、日本はしていた。どういう事情があっても、こんなことは許されませんよ。
 終戦後も二年半、海南島にいて、アメリカの捕虜を手当する仕事をしました。戦後も引き揚げるまですごく苦労して、ようやく日本に帰ってきたのは二三歳のときでした。

戦争する国づくりは許しちゃだめ

 私が、このように戦地で見たことを話すようになったのは、民医連に入職してからです。それまでは絶対に話さなかった。話すことができませんでした。
 いまの安倍政権は、戦争中におこった真実を伝えようとしない。「慰安婦」はいなかったことにしようとしています。しかし実際に私は、従軍看護婦として慰安婦さんの検診に携わり、いまお話ししたようなことを何度も目にしたのです。もし「そんな事実はないんだ」と言う人がいたら、「私は三亜にいたとき、こういうことを何度も目にした。不審でしょうがなかった」と直接申し上げてもいいという気持ちです。
 今年は戦後七〇年。これまで以上に真剣に政治について考えなければならないと思います。みなさんには自分の考えをしっかり持ってほしい。絶対に戦争をする国づくりは許しちゃだめ、妥協してはだめです。私は妥協して、戦争に反対することもせず、自分から率先して戦地に行ってしまいました。そのことをとても後悔しています。当時は「お国のために尽くせ」と教育されていたのです。
 民医連のみなさん、共同組織のみなさんは地域でとても大切なことを実践しておられます。どうか、社会をよくする運動の先頭に立ってください。私も、自分にできることをやり続けたいと思います。

写真・酒井猛


「毎週、検診の介助をつとめた」─中里さんの手記から

 医療文芸集団が一九六八年に発行した『従軍看護婦の記録 白の墓碑銘』(東邦出版社発行)。
 「戦争の悲劇をふたたびくり返すまい」との思いで従軍看護婦の記録を集めて発行されたこの本には、「江川きく」の名前で中里チヨさんの手記が掲載されています。そのなかから一部をご紹介します。

 …外来勤務に代わって初めての日だった。その日は、テントで特別の受け付けがつくられ、産婦人科の軍医が出張して来た。やがて、四台のトラックに満載された百人をこす女たちが運ばれてきた。日本中が地味な色のモンペ姿に統一されているというのに、この人たちは、色とりどりの着物を着流しにしたり、すその長い朝鮮や台湾の服を着ていた。いったいこの人たちは誰なのだろう。そして、何が始まろうというのかしら。私がキョトンとしていると、担当の衛生兵が、慰安婦の検診なのだと教えてくれた。
 私はびっくりしてしまった。新潟の村には売春婦とか慰安婦などという人たちはいなかった。だから、そういう人たちがいるということもおぼろげにしか知らない私だった。それなのに、いま私の前にその慰安婦が百人もいる…。
 しかし、軍隊はそんな個人の動揺をかまってはくれない。いよいよ検診が始まることになって、ふと衛生兵の机の上を見ると、慰安婦の名前の上に、「将校用」「兵隊用」「軍属用」と書かれてある。
 「これ、どういうこと?」
 「ああ、これか。将校用は日本人、兵隊用は朝鮮人、軍属用は台湾人だとよー」
 その衛生兵は、なげやりな言い方でそう言った。
 「まあ、まるで品物!」
 私は顔をしかめ、ぶるぶるっと身ぶるいした。

(中略)

 その夜、私はなかなか眠れなかった。聖戦を戦いぬき、大東亜共栄圏をつくろうとする皇軍の勇士たちに、そういう女がついていようとは? お国のため立派に戦って傷ついた兵隊さんを看病してあげたいと一途に思って、死ぬような思いまでしてやってきた私には、あまりにも大きな衝撃だった。私は、何度も手で空を切り、けがらわしい想念をふり払おうと努めた。夜はふけて村の祭りの事が次つぎと映り、しだいに涙があふれてきた。そして、涙の中にさっきの女たちの姿や兵隊の顔が浮かんでくるのだった。
 少女の頭ではとても想像できない重圧に、つぶされてしまいそうな気持ちで一夜を過ごした。
 それから毎木曜日、私は慰安婦検診の介助をつとめねばならなかった。


「慰安婦」とは

 日本軍の管理下におかれ、無権利状態のまま一定の期間拘束され、将兵の性交の相手をさせられた女性たち(吉見義明氏による定義。岩波新書『従軍慰安婦』より)。1993年に内閣官房長官をつとめた河野洋平氏の「河野談話」によって、長期に広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したこと、慰安所が軍当局の要請により設営されたものであることを、日本政府は認めている。

いつでも元気 2015.02 No.280